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PEOPLE IN THE BOXの『Citizen Soul』 release tourファイナル、中野サンプラザに行ってきた。
彼らもMCで言っていたけれど、約1年前に同じ場所で行われた『FAMILY RECORD』のリリースツアーの“リベンジ”を意識させるようなタイミングの公演。あの時は波多野いわくの「あの忌々しい計画停電(笑)」のおかげで、照明も演出も節電を意識したものになっていたそうな。
セットリストは以下の通り。
1.沈黙
2.笛吹き男
3.市民
4.親愛なるニュートン街の
5.見えない警察のための
6.ペーパートリップ
7.技法
8.レテビーチ
9.冷血と作法
10.ブリキの夜明け
11.ニコラとテスラ
12.月曜日 / 無菌室
13.はじまりの国
14.スルツェイ
15.ニムロッド
16.旧市街
17.汽笛
―――――――–
18.泥の中の生活
19.火曜日 / 空室
20.完璧な庭
21.She Hates December
―――――――–
22.ヨーロッパ
こんな風に帰宅後はツイートしたんだけれど、どうもそれだけじゃ整理がつかない感じがあるのだよな。
もちろん、ライヴはすごくよかったし、活き活きしていた。MCでもだいぶ笑いを呼んでいた。
波多野「帽子の中は完全にハゲてるからね!」→「うっそー!(笑)」→「エイプリルフールの責務を果たしました」
とか。
アンコールでの、
大吾「男子に訊きたいんだけど、三人の中で誰が好き?」
客席「健太さんです」
波多野「僕も男子に人気あるはずなんだけどなー」
とか。
終盤、“泥の中の生活”で帽子を脱いで、ギターも置いて、謎の舞を踊りだしたり、とか。
MCだけじゃなく、鳴らされている音にもステージの上で演奏を全身で楽しんでいる感じがあって、そのことが伝わってくる。以前の彼らのライヴじゃ信じられないことだよなあ、と思う。以前はもっと表現主義的な、楽曲の世界を見せるための演奏をしていた感があった。そういう結び目がほどけて、どんどん自然体になっている、というか。
ただ、ずっと彼らの音楽を追ってきた身として、新作『Citizen Soul』を聴くと、その“自然体”に、もう一つの側面があるような気がしてならない。それは、ざっくりと言うと、
「誰よりもほがらかに怒っている」
というか。その怒りはある種の抑圧として働く世の中の“当たり前”に、人々の価値観を“本能”から遠ざけるものに、向けられている。そういう規範や善悪の基準よりも“美しさ”が上位にあるという意識は、波多野裕文という表現者の核にあるものだと思う。
「表現の元々の出発点ていうことですか? それは……なかなか一言では言えないんですけど。僕が表現したいものは、誰もピックアップしたくないような美しいところをピックアップすることですね。それは、あるときは、善悪とか、倫理観に触れることだったり、人が傷ついたりすることだったりとかするかもしれない。その行為や物事の美しい部分、そういうものに対するまだ言葉になっていない部分、感情みたいなものを、音楽で表現したい。音楽ならそういうことができるんで。そういうのをやっていきたいと思ってます」 (『MARQUEE』2009年10月発売号インタヴューより)
で、『Citizen Soul』は、そういう意識が、これまでの中でも最も直接的なメッセージとして立ち現れたアルバムだと思っている。
《あの太陽が偽物だって どうして誰も気付かないんだろう》(“ニムロッド”)
という歌詞の一節が、とても象徴的だ。で、怒りが強くなっているぶん、音楽自身はどんどん楽しくなっている。満面の笑顔と強い怒りを矛盾せずに同居させていて、それが自然体の表現に結実している。
なんか、そういうライヴだったと思ったんだよね。
先日アジカンの武道館公演を観てからずっと考えているのが、「表拍=ダウンビート」と「裏拍=バックビート」に関しての話。今の段階での僕の考えをまとめておこうと思う。
彼らの楽曲の最大の魅力は「歌メロのリズムと抑揚」にある、と僕は思っている。それが、彼らの持つポップさの由来になっている。
もちろん、10年以上の長きにわたって活動しているバンドであるから、一つの要素で語りきれるような音楽性であるわけはないのは承知の上だ。しかし、僕の観測している範囲内では、彼らの音楽性はざっくりと「パワーポップ〜ギターロック〜エモ」というジャンル名で括られて、そこから先については、あまり踏み込まれていない印象がある。音楽雑誌のインタヴューでは、新作のモードとか、歌詞についてとか、フロントマン後藤正文のシーンに対しての意識とか、そういう切り口で語られることが非常に多い。ただ、00年代のドメスティックなロック・シーンに大きな影響を与えていた存在の割には、その楽曲構造の分析が、あんまり成されていないなあという気がする。
で、そのことに改めて気付いたのが、こないだの『BEST HIT AKG』を踏まえた武道館公演だった。アルバムのリリースを受けたツアーとは違って、各時期の楽曲を並べた選曲のライブ。だからこそ見えてきたことがあった。
ライブ終了後に、僕は以下のようなことをツイッターで書いた。
ちなみに、この日のライヴレポートはこちら。
http://natalie.mu/music/news/65436 (ナタリー)
http://ro69.jp/live/detail/64484 (RO69)
http://www.excite.co.jp/music/report/1203_akg/ (エキサイトミュージック)
この日、僕はステージよりも客席を重点的に観ていた。おそらくお客さんや関係者を含めてそんな見方をしていた人は他に殆どいなかった。我ながらどうかと思う。何故そんなことをしたかというと、オーディエンスがどこのタイミングで「拳を上げる」のか、「1,2、3,4」のどの拍にあわせて手拍子を打つのかを見定めることで、アジカンの楽曲が持つ特異性を見定めることができるんじゃないか?ということを思っていたから。
そして、なかなかに興味深い発見があった。
「バックビート問題」 で、ここからちょっと話題が変わる。日本のロックシーンは、ながらく「バックビート問題」に向き合っている。
……なんて書いたら、言い過ぎか。「バックビート問題」というのは今作った言葉だし。ただ、昔からよく言われることに「演歌や歌謡曲のノリで育った日本人は、アメリカ人やイギリス人に比べて、どうしてもファンクやロックで重要な裏拍のアクセントを取りづらい」というものがある。
ここで言う裏拍というのは一体何か。アフタービート、アップビート、バックビート、いろいろな言い方があって定義が曖昧になってしまうんだけれど、まずはwikipediaの定義から。
バックビート(back beat)とは、ポピュラー音楽の大半の曲で使われる四分の四拍子の曲で使われるスタイル・テクニックで、二拍目、四拍目にアクセントを置くスタイルのこと。 (wikipediaより)
要は、本来4拍子の「2,4」にアクセントを置くような音楽にも「1,3」もしくは「1,2,3,4」でノッてしまうのが日本人には多い、ということ。これを理解できないから、日本人には“ホンモノのロック”がわからない、という論調が、多くある。
確かに僕自身も同じようなことを実感することは多い。たとえば、数年前にローリング・ストーンズの武道館公演を観た時に、まるで宴会やカラオケでのお囃子のように手拍子を叩く年配のお客さんたちを観て、そういうことを思ったこともある。しかし、そこから乱暴に、「1,2,3,4」の表拍でしかノレないのが演歌や歌謡曲のファン、「2,4」のバックビートでノれるのがロックファンみたいなことを言うのは、ちょっと早計に過ぎるんじゃないだろうか。
それが、アジカンのオーディエンスを見ていて思ったことだった。
武道館で「拳が上げられた」のはどの拍か 以下は、僕がライヴを見ながらとったメモに基づく、「お客さんがどこの拍で拳をあげていたか」の記録。もちろん目視によるものを急いでメモったので、正確性には欠ける。照明が暗いときは見えなかったし、そもそもあの場にいた人で「俺は違う!」という人もいると思う。ただ、一つ言えるのは、武道館のオーディエンスは決して「バラバラにノッていた」わけではなかったということ。ほとんどの曲で、大多数のお客さんが揃って拳を振り上げていた。それが以下の記録だ。
01. 迷子犬と雨のビート (照明の加減でよく見えず) 02. Re:Re: (上に同じ) 03. アンダースタンド (Aメロは「…ッ・タタ、…ッ・タ」の拍手。Bメロは「1,3」。サビは「1,2,3,4」) 04. 君の街まで (Aメロは拳なし。Bメロ〜サビは「1,3」) 05. 夜のコール (照明暗く見えず) 06. アフターダーク (イントロ「2,4」、Aメロ拳なし、Bメロ「1,3」、サビ「1,2,3,4」) 07. 或る街の群青 (イントロ〜Aメロ拳なし、Bメロ〜サビ「1,3」) 08. ブラックアウト (イントロ〜Aメロ拳なし、Bメロ〜サビ「1,3」) 09. サイレン (Aメロ拳なし、サビ「1,3」) 10. ソラニン (Aメロ「2,4」で拍手、Bメロ拳なし、サビ「1,3」) 11. 月光 (照明暗く見えず) 12. マーチングバンド (照明暗く見えず) 13. 惑星 (Aメロ「2,4」、Bメロ〜サビ「1,3」) 14. 融雪 (イントロ〜Aメロ「2,4」、サビ「1,3」) 15. 藤沢ルーザー (Aメロ「2,4」、サビ「1,3」) 16. リライト (イントロ「2,4」、Aメロなし、Bメロ「1,3」、サビ「1,2,3,4」) 17. ループ&ループ (イントロ「2,4」、Aメロ「1,3」、サビ「1,2,3,4」) 18. 君という花 (イントロ「2,4」、Aメロなし、Bメロ「1,3」、サビ「1,2,3,4」、大サビ「1,3」、アウトロ「2,4」) 19. さよならロストジェネレイション (イントロ「2,4」、Aメロ拳なし、サビ「1,3」) 20. 転がる岩、君に朝が降る (Aメロ拳なし、サビ「1,3」) 21. 海岸通り (照明暗く見えず) EN1-01. 踵で愛を打ち鳴らせ 以下は省略
こうしてみると、明らかに一つの傾向が浮かび上がる。箇条書きで書くと以下のようになる。
・イントロでは、ほぼ「2,4」のタイミングで拳があげられる
・Aメロは、曲によって様々。お客さんが拳を上げず、ゆらゆらと身体を揺らして聴いているタイプの曲もある。
・Bメロでは、ほぼ「1,3」のタイミングで拳があげられる。
・サビでは、「1,3」もしくは「1,2,3,4」のタイミングで拳があげられる。
つまり、ほとんどの曲で、お客さんは曲のパートによって「どこで拳を上げるか」を変えているということになる。
その一例が“君という花”だ。この曲ではフロアの拳の上がるタイミングはめまぐるしく変わる。イントロでは「2,4」で「オイ! オイ!」コールが起こるほど大きく拳が上がる。普通だったらそのまま「2,4」で拳が上がり続けるはずなのだが、Aメロで一度拳は上がらなくなる。そしてBメロではタイミングが「1,3」となり、さらにサビで「1,2,3,4」に変わる。
ちょっと文字だけではわかりづらいと思うので、それを踏まえてこの動画を。
VIDEO 通常、アーティストがステージ上で手拍子を打ったり客を煽ったりするとオーディエンスがそれに合わせるという傾向もあるのだけれど、アジカンの場合はそれも少ない。ということは、オーディエンスは「自分の上げたいタイミングで拳を上げている」ということになる。つまりそれが、一曲の中でクルクルと変わるというわけだ。オーディエンスの「拳の上げ方」でこういう光景が見られることは、あまりない。さらに言うなら、彼らのようにライヴのほぼ全ての曲でそういう現象が見られることは、かなり珍しい。
そしてこれは場の雰囲気として体感したのだが、メンバーの演奏が伝える拍のアクセント=「グルーヴの重心」も、「お客さんがどこで拳を上げるか」と、かなり合っている。同じ4つ打ちのビートでも、イントロでは「2,4」に、サビでは「1,2,3,4」全部に重心があるようなプレイをしている。
リズムが象徴するアジカンのポップ性 実は、アジカンの持っている「歌謡性」と「ロックバンド性」のバランスも、このリズムのあり方が象徴しているのではないかと思う。彼らのメロディは決して“甘いメロディ”ではない。むしろエモーショナルな、センチメンタルなものが多い。けれど、彼らの楽曲のポップ性は、リズムによってもたらされている。
そのキーとなるのが「バックビートに重心のあるギタープレイ」と「ダウンビートに重心のある歌メロ」の組み合わせだ。これが『イントロでは「2,4」、サビでは「1,2,3,4」で拳を上げさせるような楽曲のリズムのあり方』を生み出している。
これが、僕が武道館公演から感じ取ったアジカンの「黄金律」だった。
で、何故「ダウンビートに重心のある歌メロ」が歌謡性=ポップなのか。これは“リライト”とAKB48の“ヘビーローテーション”とを比較することで見えてくるものがあると思っているんだけど、この話はまた今度。
POLYSICSのニューアルバム『15th P』に収録されている“友達ケチャ featuring 友達”が面白い。
最初に聴いた時は「なんてバカバカしい!」と吹いたけれど、実はこれ、ネタにして終わるには勿体ない興味深さを持っているのではないだろうか。つまり、この曲は彼らが持っている“ソーシャル・キャピタル=社会関係資本”への考え方をすごくパンキッシュな発想のもと音源化したものだと思うのだ。
「友達ケチャ featuring 友達」は、2011年に行われたフェスのバックヤードで、ハヤシがハンドレコーダーを片手に知人友人に「チャッ」と言ってもらった音源を元に作った楽曲だという。
http://natalie.mu/music/news/62955 奥田民生など総勢67名が参加したというこの曲(詳しい参加メンツは上の記事を参照)。聴いてみると、ひたすら「チャッ!」という声が重ねられているだけ。そこに似非オリエンタルな歌声を入れてバリの民族音楽のケチャ風にまとめた1分35秒。POLYSICSの本来の音楽性からは勿論かけ離れている曲だし、そもそも『15th P』はバンドの結成15周年を記念したコラボ曲を集めたアルバムだし、たぶんこの曲もその一貫の「話題作りのネタ」として受け取られる類の楽曲なのだとは思う。
でも、僕はこういう“企画性”にこそ、バンドの本質が表れるものだと思っている。
まず面白いのは、結局曲を聴いても「誰が参加してるか」なんてビタイチわからないこと。普通、「総勢○○名が参加した楽曲」というのは、その多くが“ウィー・アー・ザ・ワールド”的な発想を持ったものになる。東日本大震災へのチャリティソングとして発表されたJAPAN UNITED with MUSICによるビートルズのカヴァー曲“All You Need Is Love”が、まさにそうだ。個性的な声を持ったシンガーたちが、曲の一節を代わる代わる歌う。そこに、こってりしたギターなど各種ソロが挟まれる。つまり、それぞれの参加アーティストが「3秒で自己主張」して、それをパッチワークのように組み合わせる曲作りとなる。で、それとは真逆の方法から作られているのが、この曲。そもそも「チャッ!」と言ってるだけだから自己主張のしようもないのだけど、もはや誰の声かも判然としない。名のあるミュージシャンが沢山参加しているわけだから、ボブ・ゲルドフ的な発想で考えたら「ソーシャル・キャピタルの無駄遣い」である。でも、このほうが全然「POLYSICSらしい」。
それはつまり、この曲が象徴するのがPOLYSICSならではの“繋がり”の設計だということだと、僕は思っている。このフィーチャリングについて、「彼らの交友関係の広さこそがこの曲を実現させたのだ」てな感じで語るレビューも多い。勿論それは間違いじゃないのだが、大事なポイントはそこじゃない。たぶん15年バンドをやってれば、それくらいの数の友人や知人がいるミュージシャンは、他にもいるはずだ。フェスのバックヤードでの交流もあると思う。でも、本当に大きいのは「『チャッ』と言ってもらう」というある種他愛のない馬鹿馬鹿しい思いつきを、実際にやるかどうか。それを実行に移せるかどうか、だ。
で、こういうコロンブスの卵的なアイディアは、突然降ってくるようなものじゃない。大抵、そこに至る道筋がある。で、それを象徴するのが前作アルバム『Oh! No! It's Heavy Polysick!!!』のジャケットだと僕は思っている。
このジャケットでは、スタッフなどメンバー以外の様々な人がPOLYSICSのコスチュームを着て登場している。で、リスナーも応募して当選すればコスチュームを着て撮影会に参加し、自分が写った世界で一枚だけのオリジナルジャケットがプレゼントされるという企画も行われた。
(
「POLYSICS | 私もHeavy Polysick!!!」) http://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/POLYSICS/special/0309/ つまり、“友達ケチャ featuring 友達”に現れているPOLYSICSというバンドの「らしさ」は、バンドへの“参加可能性”だと思うのだ。簡単にいえば「誰でもPOLYSICSになれる」ということ。そのハードルはかなり低く設定されている。参加回路が開かれている。だからこそ、ファンだったらつなぎとサンバイザーを身につけるだけでいいし、アーティストは「チャッ」と言うだけでいい。意味ではなくコミュニケーションへの接続自体を目的としているという意味では、社会学者の北田暁大の言葉を借りて「繋がりの社会性」への志向を持つ数少ないロックバンドだ、と言ってもいい。
考えてみれば、フェスの会場を歩いていてもPOLYSICSのコアファンは、大抵オレンジ色のつなぎを着ているからすぐにそれとわかる。僕は夏フェスでお客さんに声をかけて写真を撮るような仕事をしてたこともあるから、そういう人たちの「ノリの良さ」は肌で知っている。これもきっと、POLYSICSというバンドが15年かけて築きあげてきた財産だと思うのだ。
「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」について、
VIDEO ライムスター宇多丸さんの「ザ・シネマハスラー」
http://www.tbsradio.jp/utamaru/2012/02/218_documentary_of_akb48.html
で熱く語られているのを聴いて、「観ておかないとな」と思って、TOHOシネマズ渋谷で観てきた。公演終了のギリギリのタイミング。
端的な感想を言うと、とても面白かった。AKB48のコアなファンでなくとも、画面を通してにじみ出てる“リアル”を感じ取れるドキュメンタリー映画だ、というのが第一印象。宇多丸さんの言葉を借りるなら、間違いなく「今一番売れている人が、一番攻めてる」ことを如実に示している。アイドルを支えている構造が必然的に持っている残酷な側面、今までどんなアイドルもオフィシャルには見せなかった裏側を、さらけ出してしまっている。
2011年のAKB48の活動を追った作品の柱は、主に四つ。「震災以降、東北を何度も支援に訪れるメンバーと、仙台で被災した研究生」「第3回総選挙」「西武ドーム公演の1日目、2日目」「チーム4の発足と謹慎問題」。被災地の風景も盛り込みながら進んでいく全体のストーリーの軸は「3・11」に沿っているのだけれど、ハイライトはやはり「西武ドーム公演」。ここでメンバーに容赦なく課せられる「負荷」にある。
はっきり言って、文句なしに壮絶。戦場と言っても過言じゃない。1日目は舞台裏の動線や指示が混乱している様が映し出される。終演後に秋元康がメガホンを手に「今までで最悪の公演でした」と言い放つ。ここも宇多丸さんの言葉を借りるけれど、ここで物語上、舞台監督などスタッフ側の不手際は不問にされている。そのダメさは「メンバーが乗り越えるべき試練」として描かれ、深夜の暗がりの中チームAのメンバーがダンスを練習したりする。
そして2日目。全員が気合を入れて望むのだが、こんどは当日のリハーサル段階から前田敦子があまりの重圧のために過呼吸で倒れる。直前で何とか回復するも、いつ再び倒れてもおかしくない限界状況の中、開演。中盤、先の総選挙でセンターを獲得した“フライングゲット”を歌うためにギリギリの体調でステージに現れたものの、明らかに呼吸がおかしい。それを隣の高橋みなみが(客席にはあくまで笑顔を見せつつ)深呼吸するようそっとサポートする。
前田敦子だけでなく、ステージが進むに連れて他のメンバーたちもどんどん倒れていく。熱中症で動けなくなり、過呼吸で胸を抑え、氷嚢と酸素吸入器で意識をつなぐ。アンコール前には大島優子も、そして全員を支えてきた高橋みなみもくずおれてしまう。
そんな中、「アンコール!」という大観衆の声援が、彼女たちを駆り立てる。
そういう、肉体的な負荷の極限としての西武ドーム公演を、メンバーに容赦なく降り注ぐ精神的な負荷としての「総選挙」と「謹慎問題」が挟む。そういうギリギリのところで「頑張っている」アイドルが、被災地の子供たちを励ますという構成。
これを観てどう感じるかは、それぞれの自由だと思う。感動する人もいるはずだと思うし、ちょっと受け入れられないと思う人だって当然いると思う。僕が強く思ったのは、以下のこと。
AKB48を自殺対策強化月間の啓発キャンペーンのキャラクターに起用したという内閣府は、このドキュメンタリーを観ても、本気でそう思えるのか!? ということ。
もちろん重圧に押し潰されそうになりながら、重荷に耐えながら、孤独に向き合いながら、「傷つきながら夢を見る」少女達の姿はすごく美しいとは思う。そして、基本的に「多人数参加型のゲーム」として設計されたAKB48というシステムが結果的な一人一人のポテンシャルを高く引き出しているということには強く同意する。
でも、それと「自殺対策への起用」は別だろう、と思うのだ。
「今を生きるアイドルの素顔から、日本の未来が見えてくる」
というキャッチコピーで、ここまで残酷に「踏み込んだ」ドキュメンタリーを見せているのが、今のAKB48だ。「死ぬ気でやろうぜ!」と円陣を組んで激を飛ばす高橋みなみの侠気はちょっと身震いするくらい格好いいし、「私のせいで」と過呼吸のなか自責を繰り返し、無理をおして周囲から止められてもステージに立とうとする前田敦子の姿も胸に迫る。
でも、それって見方によっては、過重な労働環境の中、自分の体力と精神力を削って思いつめてしまう人たちの合わせ鏡とも捉えられるわけで。
どっちかと言うと、そういう人に届くべき言葉は「限界を超えようぜ」よりも「しんどかったら逃げだしてもなんとかなるよ」の方だと思うので、むしろAKB48というシステムを離れてもそれなりに上手くやってる“元メンバー”あたりを起用したほうがいいんじゃないの?とか、思ったりもしてね。
te'の新作『「音の中の『痙攣的』な美は、観念を超え肉体に訪れる野生の戦慄。」』についての文章を書きました。
MVが公開されている1曲目も勿論格好いいんだけれど、個人的に最もツボなのは3曲目の新曲。はやくライヴで体感したいなと思ってます。
VIDEO te’は自らを更新し続ける。
彼らは一つのジャンルやスタイルに安住することなく、新たな刺激と陶酔を求め進化を続けている。ポスト・ロックという枠組みにとらわれることもなく、インストゥルメンタルのロックバンドが鳴らすことのできる“絶頂”を目指し続けている。そして、その現在地点を示すのが、この新作だ。
2010年末をもって前ベーシストのmasaが脱退し、新メンバーとして松田知大(WRENCH、strobo)を迎えた彼ら。ラウド・ミュージックからテクノ、トランス、ジャム・ロックなど様々な方面に触手を伸ばしながら独自の道を歩んできた実力派ミュージシャンの加入は、バンドに新たな化学反応をもたらした。そのことが、まずは1曲目から3曲目に収録されている新音源にハッキリと現れている。
一聴して気付くのはシンセや電子音の大胆な導入。4人のアンサンブルが生み出す迫力に加え、エレクトロニカ的なグリッチ音や、トランシーなシンセ・サウンドが自然に溶け合っている。打ち込みの導入という方法論や“デジタルとアナログの融合”という発想自体は、決して新しいものではない。しかしその導入は、te’の音楽が持つ「エネルギーそのもの」のような熱量に、確実に今までになかった突破口を与えている。
もちろんアンサンブルの力学も変わってきている。肉感的なベースラインが骨太な存在感を増すのに比例して、ギターはより〈歌う〉ようにもなってきた。フレットを駆け上がり、時にトレモロピッキングを駆使して情熱的に主旋律を奏でる。そして、ドラムは突進力を増し、前のめりになりながら曲を推進している。
そういう彼らの変化が最も顕著に表れたのが3曲目“俯瞰も仰視も果ては茫洋な空に対峙す、その偉観こそ真の『現実』”だろう。ゆったりとしたサイケデリックな導入から徐々にダンサブルに盛り上がっていく展開を見せたかと思うと、後半はシューゲイザー的な轟音の上でギターが泣き叫ぶように鳴り響く。その壮大で感動的なエンディングは、彼らが新たな境地に足を踏み入れたことを感じさせる。
また、4曲目から11曲目までには、松田知大が加入した新体制のお披露目ライヴとなった2011年3月の渋谷クラブクアトロでのライヴ音源を収録。こちらも、これまで彼らの音を体感してきた人にとっては、また新たな発見を得られるような内容になっている。トランシーでエフェクティブなサウンド、浮遊感あるアンビエントの導入も見られ、楽曲に新たな光が与えられている。もちろん、まるで剣豪たちが切り結ぶような一触即発の集中力とテンションの高さは健在だ。キメのフレーズの直前の(思わず出たであろう)叫び声など、レコーディング音源にはない生々しい迫力が感じられる。
ライヴバンドであることを信条に掲げるte’。音源ももちろん大事だとは思うが、何より一回一回のステージでオーディエンスと共有する“登り詰める感覚”こそが、バンドが表現したい核心にあるものなのだろう。そういう意味でも、今作は3曲の新曲+初のライヴ音源というパッケージで、バンドのことを知らなかった人にもその“絶頂”への招待状になるようなアイテムだと言える。
結成から7年、数々のロックフェスにも出演し、TVやCMでも楽曲が起用されるようになり、日本の音楽シーンの一画を代表する存在となってきたte’。彼らは新たな道を進み続ける。そして、その出発点となるのが今作だ。まだまだ音楽には未知の刺激があることを信じさせてくれるバンドだと、心底思う。
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