日々の音色とことば:

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30年間、日本のお昼に君臨する巨大な「空洞」について――書評『タモリ論』

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■タモリの虚無と孤独



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『タモリ論』、樋口毅宏さんから献本いただきました。面白かった!


書名こそ『タモリ論』だけれど、この本はタモリについてだけ語った一冊ではない。「笑っていいとも!」について、ビートたけしと北野武について、明石家さんまについて、つまりは80年代からテレビに君臨し続ける「お笑い」の神たちについて、抜群の批評性と妄想力で迫る本。

面白くないわけがない。先週発売されたばっかりだけど、かなり売れているみたい。




ただし、何かに役立つとか、何かの知見が得られるとか、そういうものを期待して読むと拍子抜けすると思う。タモリについて書かれたテキストにはそういうものも結構ある。「タモリに学ぶ仕事術」とか「タモリ流料理レシピ」みたいな。そういう「役に立つインプット」を得られるべく志向して書かれたものも多い。でも、樋口毅宏さんの書いてるものは、それとはまったく真逆。

何故かと言うと、これは「空洞」について語られた本だから。

本書の冒頭には、この本を書くきっかけにもなったという『文藝春秋』2012年3月号の特集「テレビの伝説」に起稿された樋口毅宏さんのタモリに関しての寄稿が引用される。そのタイトルは、こう。

三十周年「笑っていいとも」タモリの虚無


そして、著者にとってタモリの凄さやスケールの大きさを知る(=タモリブレイク)のきっかけとなった「伝説のナンパカメラマン」佐々木教の、タモリに対するコメントが、これ。

「ああ、あの人はな、可哀想な人だぞ。恐ろしく孤独な人だ、あのタモリという人は」


そして、吉田修一『パレード』からは、こんなくだりが引用される。

「笑っていいとも!」ってやっぱりすごいと私は思う。一時間も見ていたのに、テレビを消した途端、誰が何を喋り、何をやっていたのか、まったく思い出せなくなってしまう。「身にならない」っていうのは、きっとこういうことなんだ。


虚無と孤独。テレビを消した途端、泡のように消えてしまうもの。この本ではタモリと「いいとも!」の、そういうところに迫っている。

■「いいとも!」という深淵



タモリという人は、いろんな領域の達人であり粋人である。数々の逸話もあるし、「ほぼ日」では糸井重里がその哲学を解きほぐしていたりもする。だから、タモリの凄さについて語るときは、やはりその「達人」としての側面とか「趣味人」としての側面に焦点があたりがちだ。それが前述の「役に立つインプット」につながったりする。でも、この本ではそういう切り取り方をしていない。

「タモリが狂わないのは、自分にも他人にも何ひとつ期待をしていないから」。


これは樋口毅宏さんの処女作『さらば雑司が谷』に書かれた一節。この『タモリ論』の冒頭にも、もちろん出てくる。『笑っていいとも!』という番組、30年以上日本のお昼に君臨してきた司会者の中に、平然と横たわっている「虚無」。それが本書の見立てのキーになっている。


さらば雑司ヶ谷 (新潮文庫)さらば雑司ヶ谷 (新潮文庫)
(2012/01/28)
樋口 毅宏

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本書の後半では、「いいとも!」を通じて、ビートたけしと北野武について、明石家さんまについて語られていく。それぞれ、すごく興味深い見立てが語られている。特に、「明石家さんまこそ真の「絶望大王」である」という章では、明石家さんまという人が時折見せる攻撃性と、その人生につきまとう死の影について語られる。

そして、本の中では「いいとも!」がいずれ迎えるであろうXデーについても語られる。タモリ、たけし、さんまという「BIG3」以降の新しい神様を作れなかったフジテレビの落日についても。

本の中で、僕が一番印象的だったのが、以下のライン。

私たちだけが「いいとも!を見つめ続けてきたのではありません。「いいとも!」も私たちを見つめ続けてきたのです。


パッと見ただけじゃおよそ何を言ってるかわからない一節。でも、そこの脇にニーチェの有名な言葉を置けば、「いいとも!」が巨大な深淵であることが伝わると思う。

この本は、そういう「空洞」について書いた本だった。



たけしが“盗んだ”もの



「空洞」について語るということは、同時に自分自身について語る、ということを意味する。

底なし沼を覗き込むとき、その底にあるものについて語ることはできない。想像するしかない。それは必然的に、覗き込む自分自身について語ることにつながっていく。

そのことを象徴するのが、「偉大なる“盗人”ビートたけし」という章。本書の中でも語られているように、樋口毅宏さん自身が敬愛して止まない存在についての一節だ。

ちなみに昨年には『アウトレイジビヨンド』の公開にあわせたタイミングで、僕自身も、監督にインタヴューすることができた。僕の人生の中でも最もスペシャルな、感電しそうなほどの数十分だったのだけど、そこで僕にとっての指針になったのは、実は樋口毅宏さんの試写を見てのツイート評だった。

北野武が語る「暴力の時代」 -インタビュー:CINRA.NET
http://www.cinra.net/interview/2012/10/03/000000.php

あれは今でも感謝してます。

というわけで、たけしについて。

タモリやさんまに比べると、生き様がそのまま物語になっていて、方法論がそのまま哲学になっているたけしは、様々な角度で語られ尽くした人でもある。しかしこの本では、他ではあまり書かれたことのないアングルでたけしに迫る。芸人として、また役者としてのビートたけし、さらには監督としての北野武が「パクった」ものについて、語られる。影響を受けたもの、引用しているもの、盗んだものについて列挙される。

百通り以上、どんな風にも魅力を切り取ることができたたけしという人について、どうしてそういうアングルからの語りになったのか。それは、樋口毅宏さんが「いいとも!」という「深淵」を覗きこんでいたからではないだろうか。


樋口毅宏さんの小説では、デビュー作『さらば雑司が谷』から最新作『ルック・バック・イン・アンガー』に至るまで、これまで刊行された全ての小説の最後に、数えきれないほどの、オマージュ、影響、インスパイア、引用元を列挙するスタイルをとっている。本書ではそれを「パクリリスト」と呼んでいる。


ルック・バック・イン・アンガールック・バック・イン・アンガー
(2012/11/30)
樋口 毅宏

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つまり、たけしを通して、作家としての自分自身を語っているわけだ。タモリやたけしや明石家さんまを通して、誰しも自分自身について語ることができる。そういうことを知れるのが、この本なのではないか、と思う。




タモリ論 (新潮新書)タモリ論 (新潮新書)
(2013/07/13)
樋口 毅宏

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『PLANETS vol.8』感想――未来は想像力が連れてくる

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PLANETS vol.8

正月。久しぶりに実家に帰って、新聞を読んだ。

最近ではすっかりネット中心の情報収集のスタイルになってしまったのだけれど、お正月に届く分厚い新聞をじっくり読むの、好きなんだよね。ぎっしりとチラシが挟まってるのもあるけど、重さが、まずいい。内容も大局的な見通しが書いてあることが多い。「昨日起こったこと」じゃなくて「これから先のこと」が書いてある。特に僕が好きなのは、技術の進歩について解説したり未来予測をしたりしているところ。

だけど、今年は全然ピンとこなかった。「なんだこりゃ」と思ったよ。「わくわく 近づく」と見出しにはデカデカと書かれているんだけど、ちっともワクワクしなかった。

「おじいちゃんとかおばあちゃんが読者ターゲットなんだから仕方ないんじゃない?」

とも言われた。まあ、今の新聞は最早そういう面もあるとは思うけど、さすがにそれでも高齢者をバカにしすぎてると思ったし。何が違和感の原因だったんだろうか。ネットにも記事がUPされてたからリンク張っておこう(紙面にはイラストが描かれていて、そのテイストがまた絶妙だったんだけど、ネット版にはないみたい)

わくわく 近づく 〈未来の生活〉
http://t.asahi.com/98w1

記事では、メガネ型の通信端末、クラウド翻訳、3Dテレビやヘッドマウントディスプレイ、遠隔操作ロボットなどの技術が紹介されている。それを使った「202X年の生活」の描写が軽いタッチで書かれているんだけど、なんていうのかな……そのリアリティがいちいち古いんだよね。昭和の時代の未来観の上に最新技術を無理やり上乗せしてる感じというか。“世間”を成り立たせている価値観のOSをアップデートせずに新しいデバイスだけ繋ごうとしてる感じというか……。

特にサムいと思ったのは以下のくだり。

リビングの壁いっぱいに設置した超大型3Dテレビに映し出された試合は、序盤から一進一退の攻防が続く。
 「ピッチ上の選手は想像を絶する緊張感だろうね」
 一緒にテレビ観戦していた高校時代のサッカー部のチームメートはそうつぶやいて、リモコンを操作した。
 スタンドのカメラがとらえた映像が一瞬にして切り替わる。現れたのは、まるでピッチの中にカメラを持ち込んだような超リアルな映像だった。

みる みせる 息のむ迫力ゾクゾク
http://t.asahi.com/98w2


数年前の未来予測なら、納得がいく。『アバター』公開直後の、猫も杓子も3Dだったころとかね。でも、その後のブームの終焉で、大画面や立体映像の迫力が“リアル”を担保しないことは誰もが気付いていると思う。

というか、この描写からは、ツイッターのようなソーシャルメディアがテレビ視聴のスタイルをがらりと変え、ニコニコ動画やUSTREAMのような双方向性のメディアが当たり前のように普及してきたここ数年の流れが全く感じられない。スポーツの試合やライヴなど様々なコンテンツが(たとえば映画館やバーや競技場などで)ソーシャルビューイングされるようになったここ数年の流れからも、完全に目を背けている。たとえばサッカーにおいては走行距離やボールポゼッションやパス成功率など様々な要素がデータ化され可視化されるようになったことからも目を背けている。耳を塞いでいる。そんな今から十数年後の202X年に「高校時代の友達と二人、元日に自宅でリモコンを操作してテレビを見ながら“ピッチ上の選手は想像を絶する緊張感だろうね”などとぼんやり呟く」ことの、圧倒的な時代遅れ感!

この記事を書いた人、チェックして直したデスクの人がどれくらいの世代の人なのか知らないけど、たぶん本心では情報技術の発展がコミュニケーションのあり方や社会のあり方を徐々に変えてきていることを気づいてないか、もしくは内心苦々しく思ってたりするんじゃないかな。もしくは想像力が貧困なのか。

そういうことを思ったのは、ほぼ同じタイミングで読んだ「PLANETS vol8」のせいかもしれない。

「何か面白いことが起こっている」という感覚



「PLANETS vol8」は掛け値なしに面白かった。こっちはほんと、読んでてワクワクした。ソーシャルメディア、ゲーム、インターネット、都市論、ファッションなどなど、様々な話題を縦断しながら今の社会にどういうことが起こっているのかを解き明かすような本。そして、小手先じゃなく「未来の社会」について想像を巡らせ、それを連れてくるための価値観の変革を提言するような本。

この「PLANETS vol.8」の表紙には「僕たちは〈夜の世界〉を生きている」というサブタイトルがつけられている。パッと見ではこの言葉がちょっと違う意味合いにとられる可能性があるよな、とも思う。ぶっちゃけ、「夜の世界」という言葉を初めて聞いたときに、まず僕がイメージしたのは六本木や西麻布だった。キャバクラだったりホストだったり、いわゆる風俗的な領域。ただ、もちろん、この本で掲げられている〈夜の世界〉は、そういうことじゃない。特集「21世紀の〈原理〉――ソーシャルメディア・ゲーミフィケーション・拡張現実」の巻頭言から引用します。

現代日本を表現する言葉として「失われた20年」という言葉がある。日本は第二次世界大戦後の焼け野原から、もう一度、国を作り直し、そして1970年代の田中角栄の時代に社会や産業の基本システムがおおよその完成を見たと言われている。しかしこうした戦後的社会システムは、国内的にはバブル崩壊により、世界的には冷戦構造の終結により、あらゆる場所で機能しなくなりはじめている。
(中略)
僕たちはこの20年間、ずっと放置されてきた日本のOSを今こそアップデートしなければならない。そしてそのための手がかりは既にこの日本社会の内部にあふれている。それは「市民社会」(政治)や「ものづくり」(経済)といった、〈昼の世界〉には存在しない。少なくともこれまでは社会的には日の目を見ることのなかった〈夜の世界〉――ここ20年で奇形的な発展を見せたサブカルチャーやインターネットの世界にこそ存在する。僕たちは、そう信じているのだ。



ここで書かれている〈夜の世界〉とはサブカルチャーやインターネットの領域。その例として挙げられるのが、たとえばニコニコ動画やAKB48。たとえばLINEや食べログやソーシャルゲーム。これを成り立たせている「情報社会」と「日本的想像力」の可能性が、一冊のテーマになっている。

単なる情報社会と文化の批評だけではなく、巻末のほうの特集では荻上チキさんや開沼博さん、鈴木謙介さんなどが登場して原発についてのクリティカルな対談も載っている。萱野稔人さんが語る「国家のかたち」、國分功一郎さんの語る「消費社会」、安藤美冬さんが語る「ノマド以降」、古市憲寿さんが語る「若者論以降」の話も面白い。

ともあれ、カルチャー領域、「趣味」とか「余暇」とか思われている分野に巻き起こっている価値観とコミュニケーション方法のドラスティックな変化が、政治や経済の領域を塗り替えるという見立ては、個人的には全力で同意したい。僕がポップ・ミュージックを面白いなあと思う理由の一つも、そんなところがあるわけだし。

で、痛感したのは、要は想像力なんだよな、ということ。

たとえば、これからの社会の先行きについても、今の世間には「グローバル化で海外の安い労働力に仕事が奪われる」とか「人口減と少子高齢化でこれから大変だ」みたいな物言いが沢山、本当に沢山あって。その前提は間違ってないのかもしれないけど、有り体にいうなら「お先真っ暗だ」という気分にだけ乗っかって、想像力を働かせてない言説に思えてしまうんだよね。

まあ、今がいろんな意味で時代の転換期であるのは間違いないことだと思う。そういう時代に「この先はしんどい」とばかり真顔になって言っていると、本当に「しんどい」未来を引き寄せてしまうかもしれないよ?と思うわけです。たとえばシャッター通りの商店街とショッピングモールみたいに、既存の価値が崩落していくのと新しい価値が勃興しているのは表裏一体なわけで。そういう意味でも、たとえばこういう本の見立てを通して「今の日本に何か面白いことが起こっている」という感覚にワクワクすることは、すごく有意義なことだと思うんだよね。

ちなみに。これは別の話題につながるのかもしれないけれど、なんとなく、僕はこの先十数年後の世界には「終わらない文化祭前夜」のようなものが、今以上に沢山の人にとっての仕事になるような気がしています。

そのことについてはまたいずれ。


ウィキペディアにのってないロックヒストリー 書評『ダンス・ドラッグ・ロックンロール』【追記あり】

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久保憲司さん著、鈴木喜之さん監修の一冊。出版社より献本いただきました。ありがとうございます。

まずは目次から。

第1章:ストーン・ローゼズ/プライマル・スクリーム/オアシス

ストーン・ローゼズは何がスゴかったのか?
エクスタシーというドラッグ
ローゼズが初期のプライマルから受け継いだもの
オアシスが成し遂げたこと

第2章:パンクの終焉からセカンド・サマー・オブ・ラヴまでを繋ぐ者たち

ロック暗黒時代と言われた80年代中盤
『C86』の悲喜劇/ジーザス&メリー・チェインが起こした“暴動"の真実
新たな才能と先代からの恩恵の賜物『C81』
時代を代弁しながらも異端であり続けたザ・スミス
マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、ケヴィン・シールズの狂気

第3章:グランジの深層

ニルヴァーナとUK
グランジ夜明け前
グランジの中のパンクとハード・ロック
レディング92の目撃者
カートの思い出
グランジあれこれ

第4章:エレクトロニック・ダンス・ミュージック史概略

UKエレクトロニック・ミュージック黎明期
舞台はアメリカ中西部へ
US←→UK←→ベルギー、そしてジュリアナ東京
ロックをもってロックを制したビッグ・ビート
テクノあれこれと、その頃のオリジナル・パンク世代
ダンス・ミュージックのピークと終焉

補章:僕から見たヒップホップの歴史

エピローグ:ロックンロールの未来



この本は、一言でいうなら80年代から90年代のアメリカやイギリスのロックヒストリーの「現場からの証言」からなる一冊。クボケンさんは80年代にロンドンでカメラマンとしてのキャリアをスタートさせた人で、当時から『NME』など現地の音楽誌で活動していた人で、なので、一つ一つのエピソードが生々しい。

ジーザス&メリー・チェインの暴動の現場にはいたし、ストーン・ローゼズのスパイク・アイランドにもいた。1988年のイビザにもいた。オアシスが初めてグラストンベリーで大合唱になった時も、レディング・フェスティバルのニルヴァーナも、僕は本当にあの場にいたのだ。

それを繋ぎ合わせて、“みんなが知っている”ロック史を書いてみたいとずっと思っていた。(まえがきより)




題名にも、帯にもドラッグのことは取り沙汰されているけれど、別にそれをテーマにした本というわけではない。というか、その現場にいたら、普通にあったんだろうね、というくらいの話。むしろ、面白いのはクボケンさんの「ほんと、それ?」と思ってしまうようなエピソードの数々。


クリエイションのオフィスでボビーに初めて会ったとき、彼が何か歌っていて、それティアドロップ・エクスプローズの「タイニー・チルドレン」でしょ? って言ったら、ボビーがそうだよって喜んで、微笑んでくれたのが第一印象



あるときケヴィンがツアー・バスの中で、むっちゃ僕に話しかけてきたことがあった。いきなり「クレジットカードの会社に増額を頼んでたのに、やつら何もしてくれなかった! だから、俺は日本に来てエフェクターを買いまくろうと思ってたのに、買えないんだ!」って訴えてきて。(中略)。結局「そうなん?」としか答えなかった。あの時に僕が投資してあげたら、その後のマイブラの歴史は変わっていたかもね(笑)。



僕が着ていたモヘアのセーターを、カートに「それカッコいいね、ちょうだい」って言われて。まあ向こうだと、ライヴ後のTシャツ交換とか普通にあるんで、お返しに彼からは少年ナイフのTシャツを貰った。だけど本当に汚くって、それでも捨てるに捨てられないし、結局ソニー・マガジンズが発行していた『ポップギア』という雑誌の読者プレゼントとして提供しちゃった。



マジかよ。思わずそう思ってしまうロックスターたちとの距離の近さ。ボビー・ギレスピーも、ケヴィン・シールズも、カート・コバーンも、クボケンさんの目と語り口調を通すと、みんな「気がよくてちょっとネジが外れた兄ちゃん」に見えてくるから不思議だ。文章だけだと半信半疑に思えてしまうようなことも、ところどころに挟まれる写真のリアリティが、その説得力を増している。特にカートとコートニーのツーショットの写真は、すごく美しい1枚になっている。

ただ、その一方で、思いっきりハズしたことをそのまま隠さず書いてたりもするのも、この本の面白さ。

その時イギリスでプッシュされてたのは、スウェードとアドラブルとオアシスで、僕はアドラブルがいちばん売れるだろう、逆にオアシスは絶対売れないだろうと思って、ライヴに呼ばれても行くのを断ったりとかしていた。(略)超満員のクアトロでやったオアシスの初来日公演は、もはや伝説になっている。じつは正直に言うと、僕はその時もまだあまりピンと来てなくて、このバンドはスゴいって初めて実感できたのは、1994年のグラストンベリーで観客が大合唱してる光景を見た時だった。



……遅い! 遅いよ!っていう。(笑)

渋谷の「Li-Po」というお店で行われた「クボケン’s Rock Bar」というトーク・イベントの内容をまとめたのが本書。そんなわけで、基本的にはロックオヤジの昔語りって感じで話は進んでいくのだけれど、決して「エラそう」じゃないというのが、この本の面白さかな、と思います。クボケンさんの関西人らしい愛嬌たっぷりの語り口と自由な発想力、ロックヒストリーの文脈にそってそれをきっちりとまとめる鈴木喜之さんのシュアな筆力が、うまい具合にミックスされている本だと思います。

昨今では何かと、やれデータの細かい部分が間違ってると揚げ足をとられたり、極端な意見はいさめられがちだったりするような状況で、そのせいか、なんとなく防御的で杓子定規な文章ばかりが既存の音楽メディアを覆っているように感じるのですが、そんな中、一味違うものを世に問うことができたのではないでしょうか。(鈴木喜之さんの「あとがき」より)



まさに「ウィキペディアには乗ってないロックヒストリー」。眉唾上等!みたいな一冊です。


あと、一つだけ僕から追加したいところが。本書の最後で

たいして根拠のないような話だから、今のところはなんとも言えないんだけど、イギリスでは6とか7の年に何か新しいことが起きると言われていて……1977年のパンク、1986年のセカンド・サマー・オブ・ラヴ、1997年のドラムンベース、2007年は今から考えるとダブステップ……かな? だんだんショボくなってるような気もしなくはないけど、2016〜7年には何かあるかもしれない。



ってあるんだけど、これは僕としては違う見立てを挟みたいところ。ダブステップも確かにあのあたりだけど、もはや音楽のムーヴメントとかアートフォームで語れないのが00年代のシーンなんじゃないんじゃないかな?と、個人的には思っている。この直前まで00年代の音楽シーンの変化をインターネットの潮流と絡めて語っていた章があるんだけれど、そこはやっぱり、80年代や90年代の生々しさに比べてずいぶん駆け足の距離感ですまされているなあ、という印象がある。特に語りから漏れているものがあって、それがYouTube。

こないだアニマル・コレクティヴに取材したんだけれど、様々なインターネット・サービスの中でも、00年代の音楽シーンに最大の影響を与えたのはYouTubeだって、エイヴィ―もジオロジストも声を揃えて言っていた。

ローリングストーン日本版WEB限定インタヴュー|アニマル・コレクティヴ
http://www.rollingstonejapan.com/music/animal-collective/


——ご自身としてはこの10年の音楽シーンをどう見ていますか。

エイヴィー・テア「どう言えばいいのか難しいな。人によって見方は違うだろうし。僕は90年代に育って、90年代終わりくらいから自分で音楽を作るようになって、2000年代を経て今の場所にいるわけだけど、振り返った時に、例えば今大衆に支持されている音楽でも、もし90年代に出ていたらここまで認知されなかったんじゃないかって思うんだ。やっぱりインターネットの存在は大きいよ。当時と比べて信じられないくらい幅広い音楽へのアクセスが今はある。だから、何が支持されるかは単純に人々が何を聴くかを選んだ結果で決まる。90年代はそうじゃなかったと思う。もっと不揃いだったような気がする。だから、そこに大きな変革を感じるね」

ジオロジスト「インターネットのせいで、実際よりも話題になっているように見えることもあるけどね」

エイヴィー・テア「でも、やっぱり2000年代の一番大きな変化は、聴きたいものへのアクセスがずっと容易になったことだと思う。90年代は、パンク・ミュージックやアンダーグラウンド・ミュージック、実験的な音楽は今よりもずっと少ないオーディエンスにしか届かなかった。それがインターネットのおかげでより幅広い人にも浸透するようになった。2000年から2010年代にかけての若者は、かつて入手困難な音源とされていたニッチな音楽もネットで検索すればすぐに聴くことができる。それがより多くの若者や多くの人たちに、既成概念に捕われない自由な音楽を作る刺激になった。それが、この10年で特筆すべきことだと思う」

——インターネットにここ10年で生まれたサービスで言うと、myspace やYouTube、twitter、facebookなどいろいろありますが、どれが一番大きな影響を音楽に与えたと思いますか?

エイヴィー・テア「僕たちにとってはYouTubeじゃないかな。ぶっ飛んだニッチな音楽が発掘できるってだけじゃなくて、音楽的な部分以外でも刺激を受けるものがたくさんある。今回のアルバムは変なラジオ番組やCM、古いジングルみたいなのにもインスピレーションを受けたしね」

ジオロジスト「去年うちのツアー・マネージャーが『もしかしたらYouTubeは今の時代におけるレコード店なんじゃないか』って言ってて、なるほどって思ったな。動画を見てるっていうよりも、アルバムのジャケットを眺めながら音楽を聴いてる感覚なんだよね。レコード屋の試聴で、気に入ったジャケットのアルバムを片っ端から聴きまくったのと同じ感覚で、今はYouTubeが新しい音楽と出会う場所になっているんだ」



カルチャーの20年周期説というのがある。それは、1967年にヒッピー・ムーヴメントの「サマー・オブ・ラヴ」があり、そしてその再来として1986年のダンス・ムーヴメント「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」があったという見立てだ。

これは単なる思いつきなんだけど、ひょっとしたら、1967年、1986年に続いて、誰も言ってなかったんだけど、2005年に実は「サード・サマー・オブ・ラヴ」が起こっていたんじゃないか?というのが、僕の見立てだ。もちろん、それはYouTubeのスタートを指す。ヘイトアシュベリーでもイビザ島でもなく、世界中のコンピューターの画面上でそれは起こっていた。ネットワークを通して、今までになかった形の音楽の自由が生まれていた。そして、前にも書いたことだけれど、2007年には、USTREAMとSoundcloudが生まれている。その一連の変革が「6とか7の年に起こる何か新しいこと」だったんじゃないか、という。

まあ、これも眉唾の話のひとつだけどね。

【追記】

久保憲司さん、鈴木喜之さんから反応いただきました。僕が上で書いていた話、本には載っていないけれど実はイベントや別の場所ではしていた、とのことでした。













2017年に何が起こるか。正直、まだ想像もつきません!(笑)。


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白石一文『翼』について

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翼 (テーマ競作小説「死様」)翼 (テーマ競作小説「死様」)
(2011/06/18)
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“死様”をテーマにした、白石一文の最新作『翼』。読み終えてからしばらくの間、動悸が止まらないほどの熱量と衝撃のある一冊だった。

私は小さい頃から、死は「記憶の消滅」だとずっと思ってきた。


最初にどきりとしたのは、その一節を読んだとき。物語の中盤、主人公の田宮里江子と、その上司である城山営業本部長との会話の場面。城山は、「人は死んだらどうなると思う?」と里江子に問いかける。

「さあ、たぶんなんにもないんじゃないでしょうか。完全な無なんだろうと思います」
「完全な無ってどんな無なのかな」
「よく分かりませんが、何も覚えていない状態なんじゃないですか。すべての記憶が消去されてしまうっていうか」


そして、「要するにメモリーがゼロの状態に戻るってわけか」と言う城山に、“それだけではやや言い足りないような気がした”里江子が、付け加える。

「共有されたデータっていう送信済みのデータっていうか、そういう記憶は当然他のメモリーに残るので、その意味では関係者全員の死をもって完全な無になるのかもしれないですね」



まったく同じことを、僕は7年前、父の死に直面した時に強く感じた。そのことは以前に記していた

《集中治療室の入り口で身に付けた使い捨てのマスクは最早ぐしょぐしょに濡れていたけれど、それでも僕はその時、自分を「驚くほど冷静だ」と思った。死はゆっくりと訪れる。心拍を示す緑の数字が40から30へ、30から20へと徐々に下がっていくのを見ながら、そう思った。生と死とは決してデジタルなONとOFFではなく、状態Aから状態Bへと徐々に移行していくようなものだ、ということ。そして、たとえ生物的な死を迎えたとしても、その人の記憶が残された人々の間に生きている限りその人は生きていて、みんな心の中からその記憶が消え去ってしまったときに初めて、その人はこの世から消えてしまうのだ――ということ。根拠はないけれど、ただ強くそう感じた》



あの時、僕は《この先も決して回答の出ない「死」と「記憶」のことに関して考えつづけていくんだろう》と書いた。それは頭の中にずっと引っかかっていた。だから、白石一文の小説が、次のように踏み込んでいくのは、とても衝撃的だった。

「田宮の言う通りだとすると、自分のことを知っている人間が死ぬということは、自分自身が死ぬということだな」
「たとえ自分自身が死んでも、自分のことを記憶している人間がいる限り完全に死んだことにならないんなら、逆に、自分が生きていても、その自分のことを知っている人間が死んでしまえば、自分の一部が死んだことになる。そういうことだろ」


その城山の言葉を聞いて、里江子は〈いままで見落としていた大切な真実〉に気付く。

自分のことを最も深く理解できるのは決して自分自身とは限らない。だとすると自分という人間を最大限に把握している別の人がいて、もしもその人が消滅すれば、「自分というデータ」のまさに中枢部分が失われることになる。
 それは自分自身の死よりもさらに“致命的な死”とは言えないだろうか?


 物語は、この〈大切な真実〉を巡って進んでいく。そこには、常識や社会通念や保身や世間体や、あらゆる〈当たり前〉を覆してまでも、自分にとっての真実を貫こうとする人間の姿が描かれている。そして、210ページほどのこの小説が、読み返す度に何度もグサグサと突き刺さるほどに痛切なのは、その果てにある“致命的な死”が克明に描かれているからなのだろう。

結末は伏せるけれども、読み終えた時には「お前はどうなのか?」「お前は"ほんとうのこと"に向き合ってるのか」と胸先を掴まれるような感覚があった。


書評『キュレーションの時代』佐々木俊尚

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キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
(2011/02/09)
佐々木 俊尚

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“そもそも私たちは、情報のノイズの海に真っ向から向き合うことはできません。”(P204より)



とても興味深く、大きな刺激を受けた一冊。僕が音楽について書きながら、ここ2~3年で感じてきたこと、考えてきたこととも大きくリンクする内容だった。ミュージシャンを始め、表現に携わっている人ならば、共感する人はきっと非常に多いと思う。

本書には、ここ数年で爆発的に拡大した「情報の洪水」以降のコンテンツのありようについて書かれている。ネットの普及から15年、これまでマスメディアが独占していた情報流通の経路は大きく変化した。今は個々の人間が情報を発信し、これまでとは比べものにならないほどの量の情報が、しかも多方向的にやり取りされるようになった。その情報の海の中では、何に価値があるのか、何が自分にとって大事なものなのかを判断するコストが膨大になってくる。だからこそ、それをガイドしてくれる「キュレーター=案内人」という存在が重要になってくる。

とはいえ、決して著者のような有名人、アルファブロガーのような人だけが「キュレーター」なのではない。自分の興味や行動にタグを付けたり、それをソーシャルネットワーク上で発信したりすることで、誰しもが他の誰かにとっての「キュレーター」になりうる。ここが本書の主張のキモだと思う。

僕がこのブログを立ち上げたのは、2008年の最初のこと。その時に持っていた問題意識を、「終わりの始まりのあとに」という記事で、こう書いた。

“フラット化した場所から「聴きたい音楽」「(自分にとって)いい音楽」をどうやって探し出すか。amazonもITMSも、俯瞰でみれば広大な砂漠のようなものである。
(中略)
レーベルや音楽メディアは、そういう広大な砂漠において「水脈はここにありますよ」ということを大声で喧伝することを商売にしてきた、とも言える。水脈はやがてオアシスになり、多数の人がそこに集う。そうして、集まった人たちに水を売ることで商売は成り立つ。オアシスという言葉を「音楽シーン」と言い換えてもいい。けれど、資源だと思っていた水=コンテンツは複製が容易なおかげですでに売り物ではなくなり始めている。さあ、どうしよう? ……というあたりが、ここ数年の状況なのではないかと僕は思っている。”



あれから3年。現時点で、一人のリスナーが「聴きたい音楽」に辿り着くための最良の方法は、「自分は◯◯が好き」「◯◯っていいよね」と能動的に発信していくことになっている、と思う。メディアが大声で喧伝した情報よりも、自分が発した「◯◯っていいよね」に反射する誰かの呟きのほうが、よっぽど有用になっている。

とはいえ、僕は「音楽メディアが役割を終えた」とは1mmも思っていない。マスの情報発信ではなく、きちんと現場の熱気を共振させるツールになる自覚のある音楽メディアは、一人一人の聴き手にとっても、読み応えのある、面白いものになっていると思う。「キュレーター」という言葉を聞いたときに真っ先に思い浮かべた「All Tomorrows Parties」を筆頭に、フェスや数々のイベントの現場もメディアとして機能し、音楽というコンテンツにコンテキストを与える場所になっている。

それもあって、音楽と聴き手のつながり方は、もはや“ジャンル”とか“◯◯系”というような枠組みで区切れるようなものじゃなくなってきている。これは何度も書いてきた「YouTube以降」の価値観。邦楽だって洋楽だって、ボカロだってワールドミュージックだって、70年代だって10年代だって、全部フラット。もちろん閉じた島宇宙と差異化ゲームはまだそこら中であるけれど、リスナーの一人一人は音を聴いた感覚で良し悪しを判断するようになっていると思う。で、僕が音楽について原稿を書くときには、そういう聴いた時の感覚、「◯◯って、なんか、いいなあ」と感じたときの「なんか」を言語化することを目がけている。


そして、この『キュレーションの時代』という書籍に書かれていることは、ここ最近僕が考えていた“「最近日本から寛容さが失われている」のは何故か ”ということ、ともリンクしている。不寛容ばかりが目に付く状況、その閉塞感を乗り越えるヒントの一つにもなっているような気がする。これについては自分のツイートの引用から。

先日まとめた「寛容と不寛容の問題」(http://togetter.com/li/98366)を乗り越える一つのキーになるのではないかと思いながら『キュレーションの時代』(http://amzn.to/h82aPe)を読んでいる。less than a minute ago via web



「信頼できる人」というフィルタリング機能をうまく使うことができれば、ポジティヴなフィードバックの情報流量と共鳴を多くして、目につきやすい悪意や中傷などのネガティヴな発言を埋もれさせることができるのではないか、と。less than a minute ago via web



情報のノイズのおかげで凹んだり疲れてしまうような時は、耳をふさぐのではなく、むしろ「信頼できる人」をフィルタにしてポジティヴな情報の流量を増やすことでS/N比を上げるのもいいかもしれない、と思うようになった。less than a minute ago via web





というような、いろいろな意味で、自分にとってはすごく力になったと思える一冊。あと、最後にもう一つ。

「誠実であること」が、これからの“生きやすさ”のキーになっていくんじゃないか、と思っている。思ってもいないことを書き散らしたり、裏で舌を出すようなことは、先々において自分を苦しめるのではないか、と思っている。



以前僕はこう書いた。それは自分にとって指針の一つになり続けている。だから、本書の中にこういう一節を読んだときは、なんだか勇気づけられる気がして、少し嬉しかった。

ネットで活動するということは、つねに自分の行動が過去の行動履歴も含めてすべて透明化され、検索エンジンにキーワードを一発放り込むだけでだれにでも簡単に読まれてしまう。そういう自分をとりまくコンテキストがつねに自分についてまわってしまう世界なのです。
これはテレビのコメンテーターのような無節操な人たちには恐ろしい世界に映るでしょう。でも逆に考えれば、きちんと真っ当なことを言って世界観を一貫させて語っていれば、つねに自分の信頼をバックグラウンドで保持できる安定感のある世界であるということも言える。くだらないパッケージをかぶせたりしなくても、ちゃんと語っていればちゃんと信頼される世界なんです。(P207より)




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