日々の音色とことば:

移転しました。新URLはhttp://shiba710.hateblo.jp/です。ここは更新されませんがアーカイブを置いておきます
kokuchi.jpg

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ももクロとでんぱ組.incと大谷ノブ彦ANNと「熱量」についての話

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ダイノジ大谷ノブ彦ANN


■「熱量の生まれる場所」とはどこか



先週4月10日、ダイノジ大谷ノブ彦さんのオールナイトニッポンで、このブログのことを紹介していただきました。

なにそれ超嬉しい。光栄です。

ここのところ書きたいことばかりたまって更新が追いつかずにいたんだけど、どんどんアウトプットしていかなきゃな、と改めて思った。なんか背中を押されるような気持ち。

というわけで、今日書こうと思うのは、まさにその番組「ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン」でのキーワードの一つになっている「熱」について。「熱量」って一体なんだろう?ということについて。

番組のコンセプトは「洋楽で世界を変えるラジオ番組」。その語り口の特徴は、とにかく“熱い”ということ。以下の記事でも、裏番組の「JUNK 山里亮太の不毛な議論」と比較して、そのことが語られている。

裏番組を担当する南海キャンディーズ山里亮太は、時に好きなアイドルについて熱く語ることがあるが、その中には必ず自分自身をも冷笑する冷めた視点が所々登場し、その熱は自虐的な笑いへと昇華される。つまり、芸人ラジオの中で珍しく熱さを感じさせる山里のラジオであっても、結果として熱さ一辺倒ではなく、主観的な熱さと客観的な冷静さの間から笑いが生まれる構造になっている。



「笑いなき芸人ラジオ」という前代未聞の問題作『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』 - 日刊サイゾー
http://www.cyzo.com/2013/04/post_13058.html


ここでは、「熱量」は主観性から生まれる、と書かれている。俯瞰した視点からではなく、好きなものを好きなように語るということ。心奪われたものに夢中になるということ。スノビズムではなく、自虐や嘲笑でもなく、その対象に思い入れ、「あえて」ではなく「マジ」で熱中するということ。

マキタスポーツさんの著書『一億総ツッコミ時代』の言葉を借りるなら、ブログやツイッターなどの普及で日本人のほとんどが「ツッコミ体質」を持つようになった現代、「何かに夢中になること」こそが「熱」を生む、ということなのだろう。ハミ出した何かに指をさして笑うのではなく、むしろ自らが積極的にハミ出していこうという気概である。


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槙田 雄司

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そこはすごく共感する。ただ、上記の記事では、こうも指摘されている。

「熱さ」と「面白さ」は、必ずしも直結するものではない。すべてはその熱がどう生まれ、どう使われるかによる。


実は、僕の中でも「熱量」というのは、要注意ワードの一つだったりする。端的に言えば、熱さがあれば、夢中なら何でもいい、って思ってるわけじゃないってこと。

「熱量」イコール「本気で取り組むこと」「夢中になること」なんていう風に単純に結びつけたら、ブラック企業の研修だって熱のカタマリになってしまう。僕が惹かれてるのはそういうものじゃない。あくまで僕が面白いと思うのは、常識や既存の価値観の枠組みをハミ出してしまうもの。普通に考えたら「ありえない」ものを、何故か「アリ」にしてしまうもの。

そういうエネルギーが発生する場所が、「熱量の生まれる場所」なんだと思う。

■でんぱ組.incが体現する「現代のカオス」




MARQUEE96.png



で。実は、ちょうど僕自身、そういうテーマについて、ここ最近ずっと考えていたのです。

きっかけは、でんぱ組.incのライヴを観たこと。先日に出た雑誌『MARQUEE』の表紙巻頭特集に、そのことについて書いた文章を寄稿しました。引用します。

 でんぱ組.incのZEPP TOKYOでのライヴを観て、めちゃめちゃ胸を揺さぶられた。思わず呼吸が締め付けられるようだったし、すごく痛快だった。間違いなく、とんでもない熱があった。あれは何だったんだろう。しばらく考えた。最近ではアイドルの現場に足を運ぶことも多少は増えて、全てを捧げて応援するようなお客さんたちの熱気を体感することも多くなってきた。いつも「すごいなあ!」と思うし、あそこのフロアにもそういうムードは当然あったけど、それだけじゃない何かがあった。目を丸くするくらいの驚きがあった。で、しばらく考えて、そこにあった熱量の核心は、僕がロックという音楽に求めている本質に近いモノなんだと気付いた。簡単にいえば、それは既成概念を覆すエネルギー。マイナスをプラスに、裏を表にする無理矢理の力技。アップサイド・ダウン、インサイド・アウト。これまでのナシを何故かアリにする「今までに見たことないモノ」。それが音になり、人そのものと分かちがたい形でパワーとなって放たれている状態。もしそういう音楽に10代で出会ったらビリビリと感電するくらいの衝撃を感じると思う。
(中略)
要は一言でいえば「カオス」なのがでんぱ組の魅力だと思うわけです。ワチャワチャしてる。見せ方にしても、キャラクターにしても、音楽にしても、今までにないミクスチャーになっている。そもそも、プロデューサーのもふくちゃん(福嶋麻衣子さん)自身が、そういう人生を歩んできている。音楽エリート教育を受けそこからドロップアウトしたかと思えば芸大でノイズにハマったという極めてハイカルチャーな経歴。「萌え」をポップアートとして読み替え、秋葉原という街を日本のカルチャー発信拠点として捉えライブハウス&カフェやクラブを経営する実業家でもある。そうやって考えると、たとえば60年代のニューヨークにあったアンディ・ウォーホルとヴェルベット・アンダーグラウンドに類似した関係性をもふくちゃんとでんぱ組に見出すなんてことも、できる。
 「ロックは死んだ」。
 セックス・ピストルズ絶頂期に、ジョン・ライドンはこう言った。この有名なセリフはつまり、生物学的な「死」じゃなくて、熱力学的な「死」のことを意味しているんだと思う。ジャンルとしてロックが死んだってことじゃなくて、ロックにおいては一つのスタイルが完成すると熱が拡散してしまう、ということ。型にハマると、中身をかき回していないと冷めてしまう。「こういうことやったら◯◯らしくなくなっちゃう」なんていう守りの姿勢が形骸化を呼び、熱を失わせる。そういう意味で、ロックは何度でも死ぬ。そして新しい熱が何度でもロックを生まれ変わらせる。
 でんぱ組を見てるとその意味がよくわかる。今の彼女たちを中心に、様々なフィールドを巻き込んで「なんだかよくわからない化学反応」が生まれまくっている。考えてみたら、モッズだって、パンクだって、マッドチェスターだって、いつもそうだった。音楽とファッションとアートと、普段は交わらないカルチャーが縦横無尽に混じりあい、そこに熱が生じていたのだった。「これとこれを足せばこうなるよね」っていう正解の見えた方程式じゃ熱力学にならない。「何でもアリ」だからこそ、熱が発生する。



今年の4月7日に日比谷野外音楽堂にて行われた<カオスフェス2013>なんかも、まさに「なんだかよくわからない化学反応」そのものだった。


でんぱ組.incのプロデューサーの「もふくちゃん」こと福嶋麻衣子さんが旗を振り企画したこのイベント。出演陣は、でんぱ組.inc、BiS、cinema staff、group_inou、台湾のモッズバンド旺福(Wonfu)、そして灰野敬二率いる「孤高のノイズバンド」不失者。DJをつとめたD-YAMA(MOGRA).は、セットチェンジ中にもハイテンションなアニソンをかけまくる。

アイドルとロックバンドとヒップホップとアニソンと、何もかもがごちゃ混ぜになって進行していく祭りのステージ。しかし灰野敬二さんが鳴らした暴風雨のようなノイズが最後に全部を吹き飛ばしたような。

すっごい面白かった。

■ももクロとオズフェスと多様性



そういえば、最近にもこんなニュースがあった。ももいろクローバーZの「Ozzfest Japan 2013」への出演が波紋を呼んでいる、というニュース。

「ももクロが出るなら行かない」「チケット代を返してほしい」「アイドルがオズフェスに出るのはどうかと思う」といった内容の厳しい書き込みが、ツイッターやオズフェスのFacebookページなどSNSに寄せられている。


ももクロのオズフェス出演に異議あり アイドルが出演するってどうなの? (IBTimes) - エンタメ - livedoor ニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/7598950/

いやいや、全然アリでしょう、と僕なんかは思うわけ。







もちろん、何かに夢中になるほど好きなものがある人が、それ以外のものに排他的になる気持ちはわかる。そういう心の動きが生じるのは必然的だと思う。サブカル的な面白みを拡大していったらメインストリームを飲み込むくらい巨大なものとして膨れ上がった今のももクロは、そういう風に叩きたくなる好対象だと思う。

でも、今年のはじめにも書いたけど、僕はもう、何かを揶揄したり叩いたりするような物言いには与したくないなあ、という思いがあるのですよ。だって日本の音楽シーン、面白いから。あそこまで奇妙でコアで様々な元ネタが詰め込まれまくったアルバムの『5TH DIMENSION』がダントツでチャートの1位になる国というのは、やっぱり面白い国なんじゃないかと思うし。で、そこを掘っていけば、いろんなカルチャーへの扉が開かれているし。

で、ももクロが名実ともにサブカルではなくメインストリームのど真ん中に躍り出た以上、それに対してのカウンターも徐々に現れてきていると思う。僕としては、ceroやスカートや昆虫キッズやシャムキャッツや、東京のインディーシーンを賑わすバンドたちに、そういうムードを感じたりもしている。

とにかく。

「熱さ」と「面白さ」が結びついたときに生じる、「なんだかよくわからない化学反応」に、僕は惹かれ続けているのです。

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AKB48峯岸みなみの話の追記

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そこにある「なんか」を言語化する



解析とってないのでわからないですが、先日の記事「AKB48峯岸みなみを坊主頭にさせたのは誰か」は、おそらく相当のアクセスを集めたようでした。いやあ、やっぱりこのイシューは「誰もが何か言いたいと思ってる」問題だったんだな、と再確認。

で、ここまで記事が拡散すると、ツイッターやソーシャルブックマークでいろんな意見が届いた。もちろん異論や反論もあった。でも「自分のモヤモヤとした気持ちが言語化されてスッキリした」というのが多かったのは、何よりありがたかった。

あの記事は、あの動画を見て直感的に「なんか気持ち悪い」と思った自分自身の「なんか」を、まずはちゃんと言語化しておこうと書いたもの。議論を巻き起こそうとか、問題提起しようというより、まずは、そういう意図があったものなのです。なので、書いた文章にこういう感想をもらうことは素直に嬉しかった。そして、いろんな人がいろんなことを思ったはずなので、それは勿論受け止めた。

いろんな記事にも、いくつか目を通しました。

宇多丸 コンバットREC 峯岸みなみ坊主謝罪事件 緊急討論 AKB48と恋愛
http://miyearnzz.sakura.ne.jp/archives/13698

伊集院光が語る AKB48峯岸みなみ坊主謝罪事件と秋元康のスゴさ
http://miyearnzz.sakura.ne.jp/archives/13731

ニコ生PLANETSライジング「AKB48白熱論争2」宇野常寛×小林よしのり×中森明夫×濱野智史
http://live.nicovideo.jp/watch/lv125176353

峯岸みなみの「丸刈り動画」についての対話 ★田口ランディ+橘川幸夫
http://ch.nicovideo.jp/metakit/blomaga

峯岸みなみは今後、わき毛を伸ばすべきだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/karatedou/20130201#p1

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 - あの動画についてやはり触れざるを得ない

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130207/243462/


なるほどなあ、と思います。そしてやはり、「何か言いたい」構造のイシューなんだな、と。

システムと熱量



記事の反応の中には、いくつか「柴は“アイドルやAKB48にも目配せしてますよ”みたいな素振りをしていながら、こういう問題があるとすぐに手の平を返しやがる」みたいなものもあった。それは違うんだよなあ、と思ったので、それについては書いておこう。

そういえば、このブログ内ではスタンスをあまり語っていなかったけれど、僕はAKB48に関して言えば、ガチなファンやオタではないとはいっても、アイドルブーム全体を含めて、決して否定的に捉えているわけではない。投票によって序列をコントロールすることができるというゲーム性、コミュニケーションを商品化したエンターテイメントシステムというのは、今後のポップカルチャーの定石の一つになっていくと思っている。で、AKBも含めて今のアイドルブームに全体にある、演じ手・受け手双方が持つ“全力”の熱量は、決して揶揄したり、否定するようなものではないと思っている。

とは言っても、やっぱりなんだかんだ言ってゲーム性より、システムより、僕自身は音楽そのものが持つ熱量に惹かれてるんだな、と思う気持ちも大きい。

なので、たとえばドラゴンアッシュのkjが昨年にAKB48について語っていることがあって。僕としては彼のスタンスにすごく共感するのだ。ロック側の人間が「あんなものくだらない」とか「オタク格好悪い」みたいなこと言いがちな中、彼はこんな風に言っている。

なんというか、俺、AKB48はマジですごいと思ってるのね。やったことのないことをやってるし、青春の全てを賭してあの子たちはやってるわけなんだから。



俺はAKBのファンの人たちも本当にすごいと思ってるんだ。周りからどう思われようが、働いた金でCDを何枚も買ってる人がいるわけじゃん。実は、その人達が一番俺に近いと思うんだよね。忌み嫌われてようが、それがクリエイティヴでなかろうが、格好悪かろうが、自分が応援したいから応援する。棒を振りたいから振る。あの願望みたいなエネルギーが、俺は音楽に対して、ある。AKBのライヴ中にさ、踊って、掛け声を上げて、汗かいてる人、傍から見たらすげえ滑稽じゃん? だから俺も同じように滑稽なんだと思うんだよね。でも、それでいい。人の目を気にせずエネルギッシュでいる部分では、あの人たちに俺は負けたくないと思う。



nexusインタヴュー | ドラゴンアッシュ
http://www.nexus-web.net/interview/dragonash/index4.php


いやー、いいこと言うな―って。

アイドルと自殺



あと、僕が強く思うのは、やっぱり、誰も死なないでほしい、ということなんですよ。

上の宇多丸さんとコンバットRECさんの対談でも触れられているけれど
http://miyearnzz.sakura.ne.jp/archives/13698
やっぱりある世代の人たちは、岡田有希子さんの自殺を想起するんだな、と思った。そうじゃなくても、髪を坊主頭にしたということに、自傷行為のような意味合いを感じてしまった人も多いようだった。「このまま行くと誰か死ぬぞ」みたいな意見も、ツイッターで見かけた。

きっと内部の人も「負荷をかけている」ということが十分にわかっているだろう。最悪の事態が起こってしまうことの危惧は感じているだろうと思う。対策は練っているんじゃないかと思うし、そうであってほしい。

女の子というのは、そもそも、思い詰める生き物だと思うのだ。野猿が解散したくらいで、投身自殺してしまうことだって、ありえた。「あんなことでバカバカしい」と冷笑するようなトーンであの事件を語るトーンは当時も今も見かけるけれど、もし自分があの子の親だったらと思うと、ほんとうにやりきれなくなる。AKB48を中心としたグループには、いわば、そういう年代の女子が数百人レベルで「衆目のなかで負荷をかけられながら、ひしめき合う」という、未曾有の事態があるわけで。

そう考えると、謝罪のあとに、同じグループの仲間や、ミッツ・マングローブなど年上の芸能人が彼女を支える姿勢をすぐに見せたのは、すごくいいことだなと思った。あと、大島麻衣とか芹那とか、AKB48グループを離れた人たちがタレントとしてあっけらかんと活躍してるのも、いいことなんじゃないかなって思う。でも、それだけじゃ足りないよね。少なくとも、メンタル的な面でのケア体制はきっちりと構築すべきだと思う。

ということで、ドキュメンタリー映画もまだ観てないし(観たら感想書きたくなるだろうし)、この後もこのテーマは続いていきそう。ちなみに「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の今後の予定。

2月9日(土)シネマハスラー 「DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?」評論
2月16日(土) アイドルソング特集(Base Ball Bear小出祐介登場)
2月23日(土) 秋元康×宇多丸対談

うわー、面白そう。

なんですが、まあ、このへんの話は、追っていくとズブズブの沼に足を踏み入れてしまいそうなので、僕としてはこのへんで一歩引いておくことにします。


AKB48峯岸みなみを坊主頭にさせたのは誰か

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恋愛禁止という「校則」






AKB48の峯岸みなみが恋愛報道を機に坊主頭になって謝罪をした。もう昨日からいろんなところで言われていることだと思うけれど、この動画の持っている衝撃性はすさまじくて、目にした人の感情を(悪い意味で)揺さぶるものになっている。



ファンも、ファンじゃない人も、これには、さすがに多くの人が不快感を抱いたと思う。僕もそう。AKBも含め女性アイドル全般を「夢を実現させる少女たちの物語」として追っかけていた人にとっては「こんなものは見たくない」という気持ちがあっただろうし、遠巻きにブームを見ていた人はただ単にドン引きしただろうし。どちらにしろ、なにか胸がつかえるような気持ち悪さがあった。古くはシネイド・オコナーとか最近ではICONIQとか、坊主姿の美しい女性というのはいるので、ルックス自体の話じゃない(インパクトあるけど)。少しでもメディアリテラシーを持っている人ならば、この動画が反省の証として「公式チャンネルに」「高画質で」公開されたことの意味はわかるはずで、そこがやはり気持ち悪さの原因になっていた。

僕のツイッターのタイムラインを見ていても、場末の茶番だと皮肉っている人も含めて「何か言いたくてたまらない」人たちが沢山いた。おそらく胸をざわつかせる何かがあの動画にあるんだろうと思う。

ただ、「気持ち悪い」「不快だ」とだけツイッターでつぶやいて、「だからAKBはバカバカしい」とか「アイドルブームはもう終わりだ」とか切断処理して片付ける人も沢山いて、それはそれでいいんだけど、僕はそんなつもりにもなれなかったので、深夜にいろいろと考えた。で、僕にとって改めて印象的だった、考えを深めていく発端になったのは、動画の中でふと出てくる「秋元先生」という言葉だった。

AKB48は「学校」のメタファで動いている。

それは改めて僕が指摘することでもなく、普通に界隈で使われる用語を見ていればわかる。卒業、◯期生、研究生――。まあAKB48だけじゃなくてハロプロやスターダスト系もそうなのかもしれないけど、一方でジャニーズ系にそういう用語がないことを考えると、やはり女性アイドルグループ特有の文化なんだと思う。で、秋元康自身がAKB48を「学校」のメタファで捉えていることは、たとえば以下の対談の中でも語られている。




GQ JAPAN
「2013年、“推しメン”は彼女だ!──あっちゃんなきAKBの未来、10の予言」


そのメタファに乗っかってあの動画の意味合いを捉えると、あれは「校則を破ってしまったけれど退学にしないでください」という峯岸みなみの涙ながらの訴え、ということになる。で、研究生に降格という処分は「停学」にあたる。

「週刊誌に恋愛をスクープされた」というのは恋愛禁止というグループのローカルルール(=校則)を破ったことに過ぎないわけで、その“罪”と、20歳の女性が髪を剃り上げるという見た目のインパクトを含めた“罰”の、あまりに釣り合わないバランスが、まず感情をざわつかせている要因の一つなんだと思う。

AKB48と『桐島』がメディア空間を「学校化」した?



で、興味深いのは、沢山の人がこの動画を、桜宮高校の自殺事件を発端にした体育会系部活に存在する体罰やパワハラの問題とからめて語っていること。もちろんタイミングってのはあると思う。坊主頭ってまさに「部活」の文化だし。

桜宮高校の事件は大きくメディアを賑わせた。さらに女子柔道の日本代表における暴力行為の告発がそれに拍車をかけた。振り返ると、大津の高校生自殺を発端にしたいじめ問題へのクローズアップもあった。

でも、ずっと僕は不思議に思っていたのだ。なんで皆そんなに語りたがるんだろう?って。若くして自ら命を落とした人のことは本当に悼ましく思う。自殺なんてしなくてすむようになってほしい、暴力がなくなってほしいと心から願う。僕としては思うことはそれで終わりだったので、ツイッターでもたいして何かを言うわけでもなかった。

マスメディアではコメンテータや著名人が「ご意見番」として、いじめや体罰を語る。ソーシャルメディアにも同じ構造が頻出する。でも、いじめも体罰も、それを語っている人自身は当事者ではない場合がほとんどだ。もちろん、たとえば過去の経験に今もとらわれていたり、親としての心配を抱えていたり、問題が「他人事」ではなく「自分ごと」な人も多いのだとは思う。それでも、「ケースバイケースで粛々と対応していく」ことではなく、炎上しながらいろんな意見が紛糾するさまはマスメディア、ソーシャルメディアの双方に顕著に表れている。他にも語るべき社会問題は沢山あるのにそこにフォーカスが当たっている。社会が「学校化」し、メディア空間が「学級会化」しているのだ。

で、僕はそういう社会状況と、日本の今のカルチャー状況は相関関係にあると思っている。その象徴が2012年で言うならばAKB48と『桐島、部活やめるってよ』。『桐島〜』については他にも語るべきことは沢山あるけど、あの作品がヒットして一年を象徴する映画になったことは「“学校”の舞台装置で人間関係を、つまり社会のあり方を語る」ことの有効性を証明したということに他ならないと思うし。

AKB48のシステムとしての成功と君臨は、まわりまわって「メディア空間の学級会化」=「社会の学校化」をもたらした。そのことも、今回の騒動の遠因にはあるんじゃないか、とも思う。




こういうツイートもあった。なるほどね。

誰がそれを望んだのか





上のツイッターでの発言には心底同意。で、この「おめえら」をどう捉えるかで、その人なりの立ち位置と意見は変わってくると思う。単に運営側と捉えるか、ファンやアンチも含めてブームに加担した全ての人と捉えるか。僕は後者。

ライムスターの宇多丸さんがウィークエンドシャッフルの「シネマハスラー」で『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on. 少女たちは傷つきながら、夢を見る』を語っていたときに、中心的なテーマになっていたのは、やっぱり、AKB48やアイドルブームが持っている構造的な残酷さだった。「アイドル映画の金字塔」「日本型アイドル進化史のひとつの到達点」としながら、そもそもアイドルのファンであること自体がそのアイドルを追い詰めてしまうということの“業”を語っていた。

(追記・上のツイートのコンバットRECさんも宇多丸さんとの「放課後ポッドキャスト」で「おまえら」にファンが含まれることを語っていたと指摘がありました)。

「これ以上踏み込んでしまうとジャンルそのものが壊れてしまう、臨界点」

とあの作品について宇多丸さんは言っていたけれど、その臨界点の“先”で起こったのが、今回の騒動なんだと僕は捉えている。

コミックナタリー編集長の唐木元さんはこんな風に書いている。


アイドルが大衆の欲望を写し鏡のように反映したような存在だとするならば、「峯岸みなみを坊主頭にさせたのは誰か」という問いへの答えも、やはり「大衆の欲望」ということになる。「精神的に不安定になり、誰にも相談せず発作的に髪を刈った」というのは、それを過剰に内面化することが自罰的な行動につながったということを示している。円谷幸吉を殺したのは誰か?というのと、同じ類の問いだ。

ただ、「大衆」って言葉を使うと自分をそこからうまく切断できたつもりになっちゃうけど、そう簡単にもいかないよなとも、思う。

だって、やっぱり高校野球だって同じことなわけだしね。高校野球の「全力疾走」を称揚する美学と、アイドルの「全力」を称賛する価値観は、やはりどこかで通じ合っていると思うし。

夏になれば、坊主頭の若者が炎天下の甲子園という過酷な環境で肩を壊すまで投げ続けるのを、我々日本人はドラマとして楽しんできた。正月になれば、コタツに入りながら箱根駅伝を眺め、彼らが倒れ込みながらタスキを繋ぎ、脱水症状を起こして走れなくなったりするさまを、エンターテイメントとして消費してきた。

そこに設定されたゲームのルールのもとで、若者たちが期待を背負い、輝く一方で、ときに残酷なまでに壊れてしまう。それを「見世物」として求める無意識化の欲望が、大きな歪みとして現れたのが今回の騒動なんだと思う。

そう考えると、個人的にはいろいろ納得いく。

でもまあ、20歳の女性がその歪みの前に壊れてしまったさまで話題を作ったということ、そのことが引き起こす炎上さえシステムに取り込んで物語化できるという判断に対しての気持ち悪さの感覚は、やっぱりぬぐえないけどね。


土屋仁応「私的な神話」

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彫刻家・土屋仁応さんの個展「私的な神話」の最終日に行ってきた。

個展「私的な神話」
2011年1月18日~2月12日
メグミオギタギャラリー




場所は銀座の「メグミオギタギャラリー」。アート分野にそれほど詳しいわけでないので、彼のことは、以前から知っていたわけじゃない。tumblrnのダッシュボードに流れてきた下の写真を見たのがきっかけだ。見た瞬間、思わず手をとめた。





パッと見た第一印象は、「可愛い動物」。でもどこか引き込まれるものがある。単なるキュートさじゃなくて、ピンと張り詰めた気配のようなものを感じさせる。ピュアな無垢さというか、穢しちゃいけないような凛とした“聖性”のようなものを感じさせる。

それからWebを調べて、「私的な神話」という展示のタイトルを知った。その通り、神話をテーマにしているという。

“「神話」とは、集団の起源や文化の創造の過程を、神聖なエピソードでいろどった物語です。歴史的事実とは別に神話が語り継がれるのは、集団が誇りや絆をもつために必要だからなのだと思います。このことは民族や国のような大きな集団だけでなく、個々人やプライベートな人間関係のなかでも同じように作用するのではないかと思うのです。”



そういうものを意図して表現しているということを知って、俄然興味の熱度が増した。



で、実際に観て確信した。この人は、彫刻の作品に、まさに僕が感じた“聖性”や“霊性”のようなものを宿らせようとしている。だからこそ生命力のある表現になっている。


ちなみに、そこには高木正勝が『タイ・レイ・タイ・リオ』のプロジェクトで追求してきたことと通じ合うものも感じた。

以前にも書いたけれど、高木正勝のインタビューの引用を再掲。

「今は神様をテーマにして映像を作っています。とは言っても、必ずしも映像に神様が出てくる必要はない。仏像の前に立ったときのように、それを観て背筋が伸びるような、見透かされているような気分になりさえすればいい。仏像の代わりになるような映像を作りたいんです。それを、あれこれ学びながらやっています」

「まだ制作の途中ですけれども、作ってるうちに、神話や仏像や、絵の禍々しさや、そういうものの接点が見えてくる。繋がりがわかってくる。今は『そこから先に何があるのかを見たい』という気持ちで作っているところです」

(2008年2月28日発売、『papyrus』vol.17掲載インタヴューより)




ギャラリーの一角に置いてあった美術雑誌での彼のインタビューを読むと「表現はエゴイズムではなく、何かスケールの大きなものに捧げるようなつもりでやっている」という旨の発言もあった。


彼が丁寧に掘り出した動物や幻獣の端正な木像は、確かに「それを見て背筋が伸びるような、見透かされているような気分」になるものだった。ギャラリーの白い無機質な壁に囲まれた空間に置かれていることで、しんと染み渡る静謐さが漂っていた。


こちらにも充実した紹介記事があった。写真も素敵。
review:土屋仁応「私的な神話」《1/18、1/22》



音楽シーンの「ナナロク世代」(2)

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昨日書いたことの続き。

いわゆる「ナナロク世代」を考えるうえで、もう一つのキーになりそうなのが以下の数字。

有効求人倍率&新規求人倍率 (asahi.com)
http://www.asahi.com/business/data/koyou102.html

四年制の大学の場合、“就職氷河期”のピークとなった99年に就職活動をしているのが、76年生まれの世代だ(もちろん、それぞれにズレはあるだろうけど)。その影響が、今になってこんな形で表れてきたりしている。

<引きこもり>最多は30~34歳 就職・就労きっかけで(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080222-00000122-mai-soci

30歳から34歳が受けた心の傷
http://anond.hatelabo.jp/20080223093706

実際に自分が大学生だった頃のことを振り返って考えてみる。確かに、就職はかなり厳しかった。少し前のバブル時代の話なんて嘘のような感じだった。会社説明会後に接待とか、内定拘束で海外旅行や旅館で宴会三昧とか。信じられないという感じ。代わりに渡されたのがその頃から普及し始めた「エントリーシート」で、講習会なんかに出かけると自己分析の必要性をとうとうと説かれたりする。「自分が何をやりたいか」「自分にどんな強みがあるのか」を客観的に認識するのが、就職の第一歩、みたいな。

上のエントリーに絡めて言うと、ここで必要以上に“自分探し”と向き合って、挙句就職に失敗したりしたら、そこで受けた「否定」は自意識にかなりの傷跡を残すはずだろう。その無力感は、トラウマになってもおかしくない。僕は、本当に運良く、あの時代を切り抜けることができたんだと思う。今はこうして仕事をしているが、ニートや引きこもりになっていたかもしれない自分の姿も明確にイメージできる。他人事ではない、という感覚がある。

もう一つ。だからと言って「バブル世代」を羨ましいと思ったことも、当時から無かったように思う。むしろ、そういう空虚な盛り上がりとホイチョイ・プロダクション的な消費文化を“軽蔑していた”というニュアンスが近い。昨年に公開された映画『バブルへGO!!』は観なかったし、同じ歳の友人や知人と話題になることすらほとんどなかった。そこには、ああいうメンタリティへの根本的な“興味のなさ”があったんじゃないかと思う。

そういうところをルーツにして、くるりやアジカンやサンボマスターや銀杏BOYZの表現が生まれてきたと考えると、同世代としては非常にしっくりくる。彼らはそれぞれに違うことを追求しているけれど、自らが鳴らすロックに「意味と必然」を宿らせようとしてきた――という点では皆共通している。その背景にあるメンタリティと、“30歳から34歳が受けた心の傷”“優越感ゲームへの軽蔑”は、まるでコインの裏表のように繋がってるんじゃないかと思う。


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