日々の音色とことば:

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「呪いの時代」と「アニミズム2.0」

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内田樹さんの『呪いの時代』を読んだ。


呪いの時代呪いの時代
(2011/11)
内田 樹

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『新潮45』のエッセイやブログを中心にまとめられている書籍なので話題は多岐に渡る。2000年代後半に書かれた文章も多く含まれているので、秋葉原連続殺人事件など、今は少し古くなったトピックに触れた文章もある。しかし、本書を貫く「現在が呪いの時代である」という内田樹さんの見立てには同意せざるを得ない。五寸釘や藁人形などなくとも、オカルティックな手法を使わずとも、人は人を呪うことができる。

僕たちの時代は「呪い」がかつてなく活発に活動しています。「科学的」な人は現代に「呪い」などというものがあるものかとせせら笑うかも知れません。けれども、現に羨望や嫉妬や憎悪は、さまざまなメディアにおいて、生身の個人を離れて、言葉として一人歩きを始めています。誰にも効果的に抑制されぬまま、それらの言葉は人を傷つけ、人々がたいせつにしているものに唾を吐きかけ、人々が美しいと信じているものに泥を塗りつけ、叩き壊すことを通じておのれの全能感と自尊感情を満たそうとしています。〈P35〉

彼らはそれらの言葉が他者のみならず、おのれ自身へ向かう呪いとしても機能していることにあまりに無自覚のように思われます。(P11)



上記の話を読んで、思い当たる実例がひとつ。スマイリーキクチさんの事件だ。経緯は以下の記事に詳しい。

「インターネットで中傷され続けた10年 スマイリーキクチさん」
http://www.jinken.ne.jp/flat_now/kurashi/2011/11/25/1335.html

いつのまにか殺人事件の犯人にされ、繰り返し誹謗中傷を受け続けたという彼。刑事告訴したいと意思表示することでようやく警察が動き、最終的に19人が摘発される。驚くべきは摘発された加害者の供述だ。

17歳から40代後半まで年代は幅広く、大手企業に勤めている人もいました。難関で知られる大学の職員は、職場の仲間同士で競い合って書き込んでいたそうです。会社のパソコンや携帯を使って、勤務時間中に書き込んでいた人が何人もいたのも驚きでした。
 刑事さんを通じてその人たちの供述内容を知ると、驚きは深まるばかりでした。ぼくが殺人事件とは本当に無関係だと知ると、「ネットに洗脳された」と泣き崩れた男性。「離婚してつらかった。キクチさんはただ中傷されただけじゃないですか。私のほうがつらいんです」と主張する女性。


まさに「人を呪わば穴二つ」。他者への攻撃は自らへの毒として身体に回る。

本書を元にしたインタヴュー記事も話題を呼んでいる。

内田樹「呪いの時代に」| 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/28694

 暴力は生身の人間ではなく、記号に対してふるわれます。(中略)呪いとはそのことです。一人一人の人間の一人一人違う顔を見ないということです。


ここで言う記号というのは「レッテル」のこと。対象にレッテルを貼って属性を決め付けることから、負の感情は立ち上がる。慧眼だと思う。

ただし。

僕は内田樹さんが提唱している「呪いの解き方」には、ちょっと納得できないところがある。

呪いを制御するには、生身の、具体的な生活者としての「正味の自分」のうちに踏みとどまることが必要です。妄想的に亢進した自己評価に身を預けることを自制して、あくまで「あまりぱっとしない正味の自分」を主体の根拠として維持し続ける。それこそが、呪いの時代の生き延び方なのです。
 正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。



ここで言ってることは確かに間違ってないけれど、その「正しさ」はいわば道徳の教科書における「正しさ」のようなものなんじゃないかと思ってしまう。「パッとしない自分を受け容れろ」。わかっちゃいるけど、なかなかそれができないんだよねえ。それができたら苦労しないよ、っていう。この記事に一部から反発するような反応が集まっているのは、個人的にはこの部分に「上から目線」の道徳の教科書的な物言いを感じ取っているせいだと思う。

では、有効な「呪いの解き方」と成り得るのは何か。僕が思うに、そのヒントも本書の中に書かれている。

伝統的に日本的なソリューションといえば「塚」と「神社」である。「荒ぶるもの」は「塚」に収め、その上に神社仏閣を建立して、これを鎮める。将門の首塚も、鵺塚も、処女塚も、「祟りがありそうなもの」はとりあえず「塚」を作って、そこに収める。塚に草が茂り、あたりに桜の木が生え、ふもとに池ができ、まわりで鳥や虫が囀るようになれば、それは「生態系」に回収されたとみなされる。
自然力に任せておけないときは、神社仏閣を建てて、積極的に呪鎮する。
それでもダメなときは、「歌を詠む」「物語に語り継ぐ」という手立てを用いる。(P222)

人間が暮らす空間には、「霊的な備え」が必須だということである。
その理路はもう述べた。
霊的な備えをしておかないと、鬼神の類が人間を襲うというような話をしているのではない。人間を襲うのは人間だけである。人間が住まないエリアには神社仏閣などなくても、何の障りもない。でも、いやしくも人間が住む場所については、「人間の愚鈍さや邪悪さ」ができるだけ物質化しないような「仕掛け」を凝らすことは必須の仕事である。〈P229〉



この論考は「原発神社」や「うめきた大仏」の提案として書かれているが、何故このロジックを本書のメインテーマに援用しないのか、僕には不思議でならない。

メディアを飛び交う「記号化された悪意」は、「荒ぶるもの」である。いわば霊的存在であり、それは生身の身体を持った人にとり憑いて「祟り」をなす。そして攻撃の対象だけでなく、それを発した人間をも蝕む。最初に挙げたスマイリーキクチさんの事件で加害者が「ネットに洗脳された」「私のほうがつらいんです」と泣き崩れたというのは、この案件がいわば「祟り」であることを示唆している。

ということは、それを呪鎮するためのソリューションは、「"人間の愚鈍さや邪悪さ"ができるだけ物質化しないような"仕掛け"」としての塚や神社のようなものをメディア空間の中に建立することに他ならないなんじゃないだろうか? ここから先は飛躍した話になるけれど、たとえば「ニコニコ神社」というものがある。

≪参拝者の方へ≫
参拝される方は番組放送中にご自由にニコニコ本社2Fへお越しください。
そしてカメラに向かって願い事をしてください!

≪番組を視聴される方へ≫
番組をご覧になるアナタは「生神様」として、実際に参拝に訪れている人の願いを聞いてコメントをしてくださいね!


「ニコニコ神社 1月1日 新年参拝生中継!」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv35642272


モニターに映し出されている生放送のウィンドウが、「この世」と「あの世」を隔てる界面(インターフェイス)となっています。モニターの「こちら側」で参拝者が願いをつぶやくと、その願いはウィンドウという界面を通して神様=「あちら側」の視聴者に届けられ、それに対するコメントが「ご託宣」として返ってきます。


「ニコニコ神社が「神社」として機能していた話。」
http://socialmediaseminar.jp/blog/672


まだそんなに広まってないし、おふざけのように思われているのが「ニコニコ神社」の一般的な捉えられ方だとは思う。でも僕は、「ニコニコ神社」って、ひょっとしたらすごい発明かも?と思っている。そこでは、ネットユーザーならば、誰でも「神様」になれる。記号の存在となって、参拝され、画面を通して誰かの願いを聞き入れることができる。そうして、「宣伝乙」とか「おk」とか「ノシ」とか好き勝手なことを言いながら、生身の身体を持った他者を「祝福」する。承認する。

これって、「あまりぱっとしない“正味の自分”を主体の根拠として維持し続ける」しんどい道より、全然楽で実効性のある「呪いの解き方」なんじゃないだろうか。

ニコニコ神社に立ち上がっている信仰の原型において「神」となっているのは、実は、視聴者一人一人というより、「匿名多数の集合的無意識」だ。そこでは、神の祟りである炎上を避け、その祝福を受けるために参拝がなされる。

「匿名多数」=「八百万」。つまり「アニミズム2.0」のモデルだ。

日本の伝統的なソリューションなのではないか、と思う。

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アノニマスから「Google Army」へ

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■ハッカー集団と麻薬密売組織の仁義なき最終戦争、その決着の意味するもの



《匿名の人々が世界を動かす時代/ハッカー集団“アノニマス”の正体》
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20111114/1321267753

という記事を読んだ。

“国際的ハッカー集団”アノニマス(Anonymous)が“メキシコの麻薬組織”セタス(Los Zetas)にネット上で「宣戦布告」をし、誘拐された仲間の解放に成功したという事件。


もともとこの事件、なんだかハリウッド映画みたいな筋書きだなあと思って、気になっていた。ハッカー集団と麻薬密売組織の仁義なき最終戦争。まさに最新のクライム・サスペンス!ってな具合に。でも、リンク先の記事をじっくり読んだら、どうやらそんなことではなさそうだと感じた。この事件、違った切り口で見たら、もしかしたら世界史上の大きな転換ポイントとすら言えるんじゃないだろうか、という。

アノニマスを「ハッカー集団」という一つの統率された「組織」ではなく、匿名の人々による「現象」だと捉えると、いろいろなことに気づく。アノニマスの由来については以下の記事が詳しい。

《Anonymousは「ハッカー集団」なのか?》
http://d.hatena.ne.jp/ukky3/20110908/1315536752

上記の記事によると、そもそもアノニマスのルーツは「4chan.org」というサイト。つまりアメリカ版「2ちゃんねる」だ。

そして、アノニマスはアメリカだけの集団ではなく、日本人の構成員もいる。ブログやツイッターのアカウントもある。

私たちはアノニマスです。私たちの中には、弁護士、親、IT専門家、警察職員、大学生、獣医など、あらゆる 職業や年代の人々がいます。「アノニマス」とは日本語で「名無し」と言う意味です。私たちのメンバーは名前 も、顔も隠しているので、この名前を使っているのです。
「チャノロジー・アノニマスへようこそ」


http://anonymousjapan.blogspot.com/2011/10/blog-post.html


アノニマスの人々は、「名無し」のまま、ある特定のリーダーや統率者を抱かないまま、武力組織であるセタスに勝利を収めた。それは、一体どういうことを意味するのだろうか――。


■「Google Army」=「クラウドで暴力を共有する仕組み」


麻薬組織セタスは古いタイプの集団だ。見知った仲間同士で手を結ぶところからはじまり、武力――肉体的な暴力をチカラとして、富を蓄えることで結束を強めてきた。じつはこれと同じ構造を、現在のすべての国家が持っている。先史時代までさかのぼれば、凶悪な犯罪組織と正統な国家とを分かつものはない。歴史は勝者によって綴られてきた。
一方、アノニマスは今までにないタイプの集団だ。一つの信条を共有しているだけで、利害関係・お互いの素性・居住地域――あらゆるものを無視したまま、ゆるい結束を保っている。指揮系統はなく、人の出入りは激しい。そして、そもそも参加者の数がハンパなく多い。つまりアノニマスは“組織”でも“集団”でもなく、“現象”と呼んだほうがいいのである。似たような現象は日本でも珍しいものではない。見慣れた「祭り」や「炎上」に二つの要素――「信条」と、ハッキングという「実力行使」――が加われば、それはアノニマスの活動になる。


http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20111114/1321267753



アノニマスと同じような「現象」は、いまや世界各国で立ち現れている。指揮系統がなく、お互いの素性も知らず、ただ同じ信条を共有する集団がネットやモバイルを基盤につながったということで起動する「匿名現象」。そして、別にハッキングの知識を持ってなくとも「銀行口座を解約する」ことすら実力行使になる。


……これって、「Google Army」のようなものなんじゃないだろうか?


「Google Army」という言葉が仮にあるとして、それが「グーグルが所有する軍隊」を意味すると思うのは誤解だと思う。イメージが違う。たとえば「Google Music」は「グーグルが所有する音楽」ではない(音楽を所有するのはあくまでユーザーだ)。「Google Document」でもそう。つまり「Google Music」が「人々がクラウドで音楽を共有する仕組み」であるのと同じく、「Google Army」とは「人々がクラウドで軍隊を共有する仕組み」、もしくは「暴力を共有する仕組み」ということを意味する。

今の時点のアノニマスを「Google Army」と言うのはもちろん乱暴だ。法的にはグレーからかなりブラック寄りだし、そもそも組織としてGoogleは(おそらく)まったく関与していない。しかし「Google Music」の喩えで言うならば、アノニマスというのは、ひょっとしたらクラウド音楽サービスの遙か前にアングラ的に始まった「P2Pによる音楽の共有」くらいのものなんじゃないだろうか……?

危険な思考実験であるというのは、わかってる。しかし、ここ数十年で、それこそ音楽から貨幣まで、様々なものが情報化されてきた。それでも、暴力だけは情報化できないと、殆どの人が思っていた。軍が最新鋭の兵器や諜報システムを導入するのとはまったく別の話で、暴力だけは生身の身体=ある特定の権力が占有し、クラウド的には決して存在できないと思っていた。

しかし「情報化された暴力」(=アノニマス)は「生身の暴力」(=メキシコ麻薬組織)に大勝利を収めた。


このことが意味することは、大きい。

ちなみに、「Google Army」というのは僕の思いつきの言葉でもなんでもなく、Google本社に設置されたホワイトボードの「Google MasterPlan」にしっかり記されている。

googlemasterplan


http://undergoogle.com/tools/GoogleMasterPlanEN.html

正確に言うと「Google MasterPlan」に記された言葉は「Army of darkness」。それと「Google Gov.」(=グーグル政府)という言葉が、双方向の矢印でつながっている。
※もちろん、上に書いたことの繰り返しになるけれど僕がここで使う「Google Gov.」という言葉は「グーグルによる世界支配」を意味しない。イメージが違う。むしろ「人々がクラウドで政府(=統治システム)を共有するための仕組み」のほうが近い。

先日、ある人が鋭いことを言っていた。「“資本主義の終焉”なんて騒いでいるのは現実が見えてない人たちばかりで、むしろ市場の力は増している」という話。ギリシャに端を発するユーロの失敗は通貨だけを統合した不完全な統治形態がもたらしたものだった。そして、市場はより巨大な国家を求めている、という。

ただ、その「より巨大な国家」というのは、佐藤優的な発想の「帝国の復活」ではないと、僕は思っている。それが「Google Gov.」なのでは?ということ。メキシコ麻薬組織はあきらかに暴力装置(=軍隊)の直喩であって、それは世界史的に見れば国家の基盤の象徴でもある。けれど、それはアノニマスが直喩する「偏在する匿名の集団の現象」=「クラウド的に共有される暴力」に敗北した。

ということは、いま徐々に導火線の火がついているのは“資本主義の終焉”なのではなく“国家の終焉”なのではないか?という……。

もちろん、これは与太話だけどね。


原発とメリーゴーラウンドとロイコトーム

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 僕はわりと本気で、言霊の存在を信じている。

 それはオカルトでも何でもなくて、少なくとも人が願いの気持ちと共に発した言葉は、その人とその人の周囲に何らかのプラスの作用をもたらすと思っている。強い意志をこめて、かつその責任をきちんと引き受けることのできる身体から発せられた言葉は、(それが100%実現するかどうかは別として)きちんと結実をもたらすはずだと思っている。

 僕がそう思うようになったきっかけの一つは、以下の文章を読んだことだった。


「仕方がないよ」彼らは言いました。「そういう仕組みなんだから。」

もともと、彼らは、仕組みに気がついて、ささっとそれに従うことが、だれよりも得意な人たちなのでした。

 そんな彼らが、長いあいだ従いつづけて、せっかくついた地位でした。

(中略)

灰色のつくり出す世界で、「仕方がない」と言って、「仕組み」に従っている人たちは、うすうす、あることに気がついていました。

 それは、自分たちのように「仕組み」に従って、人をあやつっていた者たちは、歴史の中で、いつも、倒されて、殺されてきたということでした。

 二百年くらい前には、王様たちが倒される「革命」が起こりました。「仕方がないよ、そういう仕組みなんだから」と言って、王様の命令に従っていた人たちはみんな、ギロチンにかけられたり、銃殺されたりしました。

 百四十年くらい前には、人を売り買いする、「奴隷制度」が倒されました。それは、たくさんの人が、「仕方がないよ、そういう仕組みなんだから」と言って、疑うこともなかった仕組みでした。

 ほんの八十年くらい前には、それまで投票することが出来なかった女の人たちが、たくさんの国で投票できるようになりました。「女の人なんて、投票できなくていいんだよ。男にまかせておけばいいんだよ。」と言っていた人たちは、女の人たちに、こっぴどくこらしめられました。

(後略)




>  小沢健二『うさぎ!』(季刊 子どもと童話 26号)  <

 そして文章は、

 どの「仕組み」が倒された時も、それが倒れる直前まで、だれもが、「仕組み」を倒すことなんて不可能だ、と思っていたのでした。



 と、続く。

 9月11日。東日本大震災から半年が経った。同時多発テロから10年が経った。

 ちょうど5年前に書かれた上の文章は、不思議なほど的確に2011年の日本を覆っている問題を指し示している。ここで書かれている「仕組み」に共通しているのは、力と権益をもたらすシステムが、それにアクセスする術を持たない多くの人たちの命や生活をコントロールするという構造。もちろん、原発も、その一つ。震災は巨大で無慈悲な被害をもたらしたけれど、それは決して「一夜にして全てを変えた」天災ではなかった。原発の事故が明るみに出した宿痾は、それ以前から、ずっと社会に巣食っていた。それが「どこかの悪い奴らがあくどいことを企んでるからだ」みたいなことでないのは、たとえば年金資金と穀物市場と食糧危機の関係を考えれば明らかなことで、誰もが小さくそこに加担していた。

 そして「仕方がないよ、そういう仕組みなんだから」という言葉は、ある種の呪詛となり、強い閉塞感を生み出してきた。その言葉は、システムへの依存であり、“当たり前”への依存だった。


 THE NOVEMBERSというバンドがいる。3枚目のアルバム『To (melt into)』とシングル『(Two) into holy』と8月に二枚同時発売した。全曲の曲と詞を手掛ける小林祐介は、それを「震災を受けて作った作品」と明言した。僕はこのアルバムを聴いて、二つのメタファに気付いた。まず一つ目は「メリーゴーラウンド」という言葉。「降りられないメリーゴーラウンド」というイメージで、「システムへの依存」を表している。キラキラと輝く素敵な乗り物。でも、一度回り続けるとそれは決して止まらない。

 『MARQUEE』誌に掲載されたインタヴューで、彼と以下のような会話をした。

――アルバムの価値観についての話なんですけれども。震災後のショックや不安から、どういう気持ちが作品に向かっていったんでしょうか。

「人生で初めてすごくシリアスな気持ちになって。それがそのまま価値観として作品に出ている気がします。あと、すごくポジティヴに、よりよく、健康的に生きたいという気持ちでした」

――これは訊きたいんですけれども。怒りはありましたか?

「いや、怒りはないです。怒りって対象があるってことですよね。それはないかな」

――僕が思うには、作品に、わかりやすい怒りはないと思うんです。でも、メタファとして表現されているものがある。震災があったからどうこうではなく、その前からずっと変わらずあったものとしての、「何が息苦しくしているのか」ということの象徴を、きっちりと指し示していると思ったんです。固有名詞としてではなく、それを隠喩で表現している。僕の解釈だと、その言葉が「メリーゴーラウンド」。どうでしょう? これは大事な言葉ですよね。

「今仰った一連の話は、まさにその通りです」

――でしょ?(笑)

「新たな価値観が芽生えたというよりは、今まで呼び方とか触れ方がわからなかった気持ちにようやく名前がついたような気持ちというか。僕が思ってたのはこういうことだったんだっていう」

――“はじまりの教会”で〈降りられないメリーゴーラウンドを降りたい〉って歌ってますよね。このことをちゃんと言わないと、救いを歌っても上滑りするんですよ。

「おお、なるほど。上滑りするんですね」

――そういう音楽って、世の中に沢山出ているんです。無難な救いという。THE NOVEMBERSというバンドがこの作品で書いたものというのは、それとは違うと思うんです。単に健康的に、ポジティヴにというだけじゃなくて、「ここから降りる」という価値観の対象をちゃんと標的にしている。たとえば〈息がしにくいのは 水の中だけじゃない〉と歌うというのは、その存在を表現しているわけじゃないですか。

「はい。そうです」





シングルのほうに収録された“夢のあと”のPVにもメリーゴーラウンドは出てくる。そしてもう一つ、作品から受け取ったメタファが「ロイコトーム」だった。


――シングルとアルバムの両方に出てくる言葉に「ロイコトーム」というのがありますよね。

「あ、知ってますか?」

――これはすごく大事な言葉だと直感で思ったんで、調べました。ロボトミー手術に使うメスなんですね。

「そうなんです。これは『MISSTOPIA』の“dysphoria”という曲を書いた時に知った言葉で。あれは僕の中でロボトミー手術について書いた曲なんです。すごくないですか? ロボトミー手術って。あれが医学として成立しているような素振りを見せていたわけじゃないですか。だから、今の世の中で『科学的だ』って言われているような話も、何をもって信じていいのか、自分自身で選ばなきゃ危ないですよね。ロボトミー手術されてるようなもんですからね(笑)」

――だから「ロイコトーム」という言葉の使い方は、メタファの使い方として、すごく正しいんですよ。

「いやあ、そうですよね」

――この言葉は、ちゃんとこの作品を聴いた人は原発のことだってわかるんです。

「はい」

――ヒップホップのようなやり方はあるけれど、原発のことについて「原発」という言葉を使って歌うのは難しいんですよね。でも、メタファを使えば、現実にどう対処するかということを、おとぎ話の言葉を使って言い表すことができる。ファンタジーはそういう役割を持っているということを作ってる途中で気付いたんじゃないかと。

「そうです。そういうことは気付きましたね。そこまで意識してはなかったですけど」



 ロイコトームという言葉の持つ「脳に突き刺さったメス」としてのイメージを、僕は「仕方がないよ、そういう仕組みなんだから」というシニシズムへのカウンターとしての表現として受け取った。当たり前のような顔をして人の幸せを阻害する「仕組み」は、それが現前している時こそ普遍的に見えるかもしれないけれど、後から振り返ったら一瞬で崩れてしまうような流動的なものでしかない。だからこそ、「よりよく生きたい」という願う時の「よりよく」という価値観自体を、誰かに与えられるものではなく、主体的に選んでいくことが必要だと思う。そして、人は誰しも、そうすることができる。

 ニュースを見て、滅入るようなことも多いけれど、基本的に僕がポジティブでいられるのは、言霊の持つ力を信じるおかげであると思っている。


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インタヴューをする時に僕が心がけていること

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ある方からTwitterで

突然ですが、柴さんは、インタビューをする際、表現者の方の、どんな思いを引き出そうと心がけていますか?例えば、ナタリーやパピルスでのインタビューの際を、教えていただけたら幸いです。最近、いいインタビューとは何なのか?を考えているのですが、色んなインタビューを読んでいて、やはり柴さんの原稿が、濃厚で、「おもしろい」と感じるのです。どこを目指すことで、そのような素晴らしいインタビューになるのか、知りたいのです。よろしくお願いします。



と訊かれた。

 そんなこと言われると素直にすごく嬉しくて、思わず舞い上がってしまったんだけれど、でも、同時に「うーん」と唸ってしまった。この質問にちゃんと答えるのは難しい。いいインタビューって何だろう。どうすればよくなるんだろう。

 そういえば、最近SPBSで「作家・ライター養成講座」なる講座で喋らせてもらう機会があって、そこでも同じようなことを訊かれた。「インタビューが上手くいくやり方を教えて下さい」的な。その時は正直に言っちゃったな。「やり方なんてありません」って。いや、正確に言うと「毎回頑張ってます」というのが近いかもしれない。インタビュー相手の一人一人考えていることが違うのは当たり前で、同じ人でも作品やタイミングによって話すべきことが異なるわけで、だから目指す先というのは、毎回毎回、違う。

 でも、いくつか、僕なりに心がけていることはある。当たり前のことかもしれないけれど、ちゃんと書いておこう。

 一つめは、「相槌をうつ」ということ。相手の投げたボールを、ちゃんと一回こちらのミットで受け止める。時には相手の言葉を繰り返す。場合によっては「それって、○○ということですよね」みたいに言い換えたりもする。気になった言い回しがあったら、その意図を尋ねる。いずれにしろ、相手の言ったことが届いていることを、ちゃんと示す。これがないと、会話が乾いてくる。就職の面接みたいになってくる、というか。

 二つめは、「準備をする」ということ。もちろん作品を聴きこんで解釈するし、資料とだいたいA4一枚くらいに訊きたいことを印刷した紙は手元に置いておく。手ぶらでいくことはほとんどない。

 と、書いてみたけど、やっぱり、あまりに当たり前すぎるなあ。加えて言うならば、作品について「これって、こういうことなんですよね」という納得を最初の方で互いに共有することができたらその先に踏み込んだ話のできるインタビューになる、ということかな。こちらの解釈とメタファが上手くハマったら、共有したその前提に乗っかることで、紋切り型ではない会話ができる。ただ、それは作品やその人の生き方をこちらがどう解釈したかの問題だから、メソッド化することは不可能なんだよなあ。

 僕が覚えているなかでは、ケミカル・ブラザーズの『ウィー・アー・ザ・ナイト』についてのインタビューをした時が、“上手くハマった”例として思い出深い。あのアルバムはそれまでの派手なブレイクビーツやハウスから、ミニマルで洗練されたエレクトロニック・ミュージックへと音楽性を変えてきた作品だった。そういう「必要な音色だけが的確に配置されている」感覚を伝えたくて、「このアルバムは“禅”の感覚に通ずるものがありますね」と言って、竜安寺の石庭の話をした。「確かにそうかも!」ってずいぶん盛り上がって、次に会った時には「ああ、“禅”の話をしたライターだったよね。本国のプレスにもそうやってアルバムの説明をしたよ」と声をかけてくれた。あれは嬉しかったな。

 質問の答えになってるかどうかわからないけど、今僕が思うのは、こういうことです。


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ロンドン暴動と『リトル・ピープルの時代』

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ここ半月くらい、ことあるごとにロンドン暴動のことを考えていた。暴動そのものというより、それが象徴する「暴力」のあり方について考えていた。第一報を聞いてから、「とても対岸の火事とは思えない」と直感的に感じたことがその一つ目の理由。そして、これは音楽の問題、というか想像力の貧困に突き付けられた問題、ということを思ったのがもう一つの理由だ。

僕は暴動に直接関係のある立場ではない。ロンドンには何度か行ったことはあるけれど、燃え上がる火の手を直接見たわけでもないし、発火点となったトットナムの雰囲気を知っているわけでもない。だから、あそこで暴徒になった人達のことを、直接僕は語ることはできない。でも、「何かがおかしい」という感覚が、とにかくあった。何が起こっているのだろうか。なんであいつらは暴れてるんだろう。まずは、在英の人達のツイートを読んだ。


いちばん近いのは日本の「成人式の大暴れ」。あれです。


今回の暴動に参加している連中には「扇動する者」もいなければ「主張」もない。まさに彼らの行動は、ただひたすら「暴力」という「流行」を追っているだけ。レミング的暴走の例えに相応しい愚行だと私は思います。


http://togetter.com/li/172491



上記は、最初に目に入ってきた入江敦彦さんの考察。他にも、多くの在英邦人が彼らのことを「動物だ」「何も考えてない」と斬って捨てていた。でも、僕は正直「え?」と思った。もちろん真実の一面ではあるのだろう。けれど、彼らのことを「動物だ」と見下す視線の集積こそが、この無方向な暴力を生んだのではないのだろうか。もちろん一般の人がそれを語るのはかまわないけれど、作家という職種の人が「自分自身が分断に加担している」という想像力を持っていなくてどうするのだろう?と。

一方で、UKのグライムやロードラップを紹介してきた@BCXXXさんを中心としたまとめが以下。
http://togetter.com/li/172301

ハッとさせられたのは、現地でグライムのシーンを支えてきたDJであるLorgan Samaの一言だった。

「もしこの10年間、この若者たちが作ってきた音楽を無視してきたのでなければ、彼らが何を考えているかわかるはずだ」


http://bit.ly/qIJdtG。


つまり、彼のツイートは「告発」である。グライムやロードラップは、いつでも暴動を起こしうる現地の若者たちの「怒り」とリンクしていた。そのムードと熱を音楽として放ってきた。それが無視されてきたからこそ、みなが「あいつらが何も考えているのかわからない」と言っているのではないか、と。

そして、注目を集めたのが匿名による以下の記事。

報道から明らかになっているのは、暴徒の大半が未成年であること、特定のエスニックグループが暴徒になったわけではないこと、そして多くがロンドンでも貧しいとされる地域の住人であること。加えてもう一つ言えるのは、彼らの多くがカウンシルフラットと呼ばれる、低所得者向けの公営住宅に住んでいると言うことだ。


http://anond.hatelabo.jp/20110816094649

暴動の背景には、中間層とカウンシルフラットの低所得者層との根深い分断があり、低所得者層の側には「いま・ここ」を抜け出す「希望」がなく、中間層にとっては「税金であいつらばっかり優遇しやがって」という「侮蔑」がある。確かに、僕のイギリスの友人も同じようなことをカジュアルに言っていた。

そして、おそらくこれこそが、ロンドン暴動を「対岸の火事」と感じることのできなかった理由なんだろう。同じ問題は日本にもある。中間層からの生活保護層に対する「働かないあいつらは勝ち組だ」的なバッシングは散見されるし、一方で生活保護層は自殺率5倍というデータがある(誰でもいいからみんなを殺したいのと、自分を殺したいのは、等価だ)。この鬱屈と絶望がクロスカウンターする構造は、日本のものでもある。それは当然のことで、その背景にグローバル化した資本主義とネットワークによる社会変化があるからだろう。

で、宇野常寛さんによる新著『リトル・ピープルの時代』。

この本には直接的にロンドンの暴動について触れた箇所は、もちろん一箇所もない。時期も違うし、そもそもイギリスについての言及も全くない。端的に言えば、村上春樹と特撮ヒーロー(ウルトラマンと仮面ライダー)を対比させて、論じた本である。コンテンツ分析を通じて、現代の日本社会を解き明かそうという批評軸が組み立てられている。しかし、おどろくべきことに、この本は上に挙げたどんなレポートよりも、ロンドンに起こった暴動の「構造」を解き明かしている。というか、在英邦人たちの「見えなさ」すらも解き明かしている。読んでいて目から鱗が落ちるような一冊だった。

村上春樹とヒーロー番組の対比で、現代における「暴力」の問題を扱うというコンセプトはもう一年半前にぼんやりとだけどできていました。


http://synodos.livedoor.biz/archives/1813576.html
(SYNODOS インタヴューより)

『リトル・ピープルの時代』においては、ジョージ・オーウェルと村上春樹『1Q84』の造語を借りて、国家を擬人化可能なものとする「大きな物語」に属する思考法を「ビッグ・ブラザー」、ネットワークが世界中に張り巡らされグローバル経済が国家の上位にくる現在の非人格的なシステムやアーキテクチャにのっとった思考法を「リトル・ピープル」という言葉で象徴させている。

疑似人格(ビッグ・ブラザー)化できない「壁」、つまり世界の構造というのがこの本のテーマなんですよ。


http://synodos.livedoor.biz/archives/1813589.html
(同上)

このメタファを援用するならば、ロンドン暴動を語る(上の世代の)人達にとって、暴動はあくまで「反体制」=ビッグ・ブラザー的な想像力で解決できるものであってほしかったはずだ。資本家と労働者の対立だったり、貧困問題をベースにしていたり、60年代的なロジックで語れるわかりやすい階級闘争であってほしかったと思う。だからこそ、現実に暴れている若者たちに何ら思想性がないことに落胆したはずなのだ。

でも、現実に暴れていた若者たちは「リトル・ピープル」だった。彼らは反体制の戦士ではなく、スマートフォン(BlackBerry)で連絡を取り合う「単なる子供たち」だった。暴力を生み出した契機は「ネットワークで繋がったこと」、それそのもの。そこにあった怒りは、グローバル経済がもたらした「疎外」から生まれたもので、つまりビッグ・ブラザー的な「大きな物語」はそのどこにもなかった。『リトル・ピープルの時代』で書かれていた暴力の構造についての話は、そこに表面化した問題をまるで予言しているかように僕には思えた。

そして、最初に書いた「音楽の問題」になる。

70年代のロンドンを描いたパンク・ミュージックとして、THE CLASHの“WHITE RIOT”がある。名曲だと思う。メッセージは古びていないと思う。でも、あそこで歌われていたことと今のロンドン暴動をそのまま繋げられるのだろうか、と考えると僕には疑問符が浮かぶ。たとえば、THE CLASHは社会変革の意志を持っていたけれど、今のガキ共はそれに比べて何も考えちゃいねえ、なんてこき下ろす言い方には、僕はリアリティを感じない。そして、グライムやロードラップは現場の鬱屈と怒りを映し出すが、それは残念ながらTHE CLASHが届いたようには、上の世代に届いていない。それを語るべき「想像力」が不足しているのかもしれない。

『リトル・ピープルの時代』のロジックに準拠して語るならば、THE CLASHの“WHITE RIOT”でロンドン暴動を語るのは、今や役割を終えた「ビッグ・ブラザー」的な想像力を駆動していることに他ならないのではないだろうか。ついでに言うならば「日本で唯一<壁>のあり方を意識している世界的作家」村上春樹は、UKの音楽シーンに敷衍するならば『OKコンピューター』から『キッドA』のレディオヘッドで、その先を誰も描けていないからこそUKロックのシーンに「レディオヘッド以降」の存在が出てきていない(=低迷している)ということなのではないだろうか。

話がまとまらなくなっちゃったかな。

とにかく、そういう意味で、『リトル・ピープルの時代』を僕は非常に面白く読んだ。村上春樹やヒーロー番組やAKB48について書かれている本だけれど、そのロジックは、様々な分野の文化や社会に今起こっていることに敷衍することができる「ツールとしても非常に有用」な一冊だと思う。


リトル・ピープルの時代リトル・ピープルの時代
(2011/07/28)
宇野 常寛

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