日々の音色とことば:

移転しました。新URLはhttp://shiba710.hateblo.jp/です。ここは更新されませんがアーカイブを置いておきます
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レディー・ガガを熱く語りたい「その2:マイノリティの全肯定」

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再びレディー・ガガについて。ちなみにアルバム『ボーン・ディス・ウェイ』はまだ聴いていません。発売される前に書き切ってしまいたいなあ。


Born This Way EpBorn This Way Ep
(2011/03/15)
Lady Gaga

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前回の記事に書いたことは、(1)彼女のポップ性の由来は「アーティストの“生き様”自体がバイラル・パワーの源泉となっている」にあるということ、そして(2)彼女は常にマイノリティ(=クィア、LGBT)側の人間であり、それを公言してきた、という二つのトピックについてだった。

これを踏まえて、今回はアルバム『ボーン・ディス・ウェイ』に向けての話。


擬態の対象が人間以外に「進化」



『思想地図β』に掲載された福嶋亮太さんの記事「セレブリティとオタク――ポップアートの新しい資源」に、レディー・ガガについての鋭い考察があった。

たとえば、ここ一、二年、目覚ましい活躍を見せるレディー・ガガ。彼女が示すのは、擬態能力もその閾値を超えれば、圧倒的な個性として顕現するという事実だ。ガガの総体はすべて借り物のイメージだが、しかし、そのことで彼女を批判するのは当たらない。というのも、ガガの主戦場は、まさにその既存の情報やイメージの配列による社会風刺にあるからだ。そして、そんな彼女にとってとりわけ擬態に値するのが、「セレブリティ」という存在なのである。




思想地図β vol.1思想地図β vol.1
(2010/12/21)
東 浩紀、宇野 常寛 他

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「擬態」というのは重要なキーワード。この考察はおそらくアルバム『ボーン・ディス・ウェイ』のプロモーションが開始される前に書かれたものだけれども、2月のグラミー賞授賞式を皮切りに開始されたガガのアルバムに向けての長い長いバイラル・プロモーション攻勢においても、「擬態」は大きなキーワードになっていく。ただし、その対象はもはや「セレブリティ」などではなく、「人間以外」になっていくわけだが――。

(※ちなみに前回の記事で書いたとおり、ガガについては、音楽という作品だけでなく、そのプロモーション、ソーシャルメディアに巻き起こすバズのあり方も含めて“ポップアート”としての表現として機能している。しかも本人がそのことに極めて意識的だ)


ニューアルバムへのプロモーション開始に設定されたのは、2月13日の第53回グラミー賞授賞式。(ただし、その日に配信する予定だったシングル“ボーン・ディス・ウェイ”は、前倒しして11日に緊急配信されている)。ガガは授賞式にて同曲を演奏、「卵から孵化する」パフォーマンスを見せている。





パフォーマンス自体はすごく完成されていたけれど、卵の中で膝小僧を抱えてうずくまってる、そのまま運ばれていくレディー・ガガを思うと、なんだか可笑しみがこみ上げている。”奇抜”というレベルをいよいよ越えて、右斜め上にぶっ飛んでるというか。

ただし、重要なのはここに始まるパフォーマンスが絶妙に“計算”されているということ。単にオモシロな奇行をやってる、というわけじゃない。前回の記事に書いたように彼女のパフォーマンスはバイラルを生むように設計されている。全世界からとにかく“ツッコミ”を集めることで、そのパワーが最大化する。

ちなみに、レディオヘッドが「渋谷 ハチ公広場 金曜日 18時59分」というツイートをしたのが、その4日後にあたる2月17日(木)のこと。詳細は以下の記事を。

■レディオヘッド渋谷ハチ公前事件 そしてトム・ヨークめっちゃ踊る。 | DDN JAPAN / (DIGITAL DJ Network)

http://japan.digitaldj-network.com/archives/51843920.html

このツイートもバイラルを巻き起こすべく絶妙に設計されている。もし最初から「渋谷のハチ公前ビジョンでレディオヘッドの新曲PV流します」という告知だったら1000人が集まるような事件には決してならなかっただろう。おそらく「噂を公式に否定」「イベント中止」「サーバーダウン」などネガティヴな事態が巻き起こる流れも含めて、一連の出来事はバズが巻き起こるよう極めて巧妙に仕組まれていたはずだ。しかも、それをグラミー賞の話題をかき消すようなタイミングで行うことにも意味があったはず。明らかに「潰し」にいっている。前回の記事で「レディー・ガガvsレディオヘッドの仁義なきバイラル戦争」と書いたのは、これのこと。

「伝えるべきもの」を背負った、ということ



さて。レディオヘッドの話はおいておいて、“ボーン・ディス・ウェイ”の歌詞について。ガガは『ボーン・ディス・ウェイ』へのプロモーションにおいて明らかにこれまでよりもさらにギアを上げて奇抜なパフォーマンスを始めたわけだが、しかし一方、その曲の中身においては、極めてシリアスかつストレートなメッセージが花たれている。それも、彼女の表現の軸となるようなものだ。

ブラックでもホワイトでも、ベージュでも
チョーラ(混血)の家系でも
レバノン人でも東洋人でも
障害のせいで仲間はずれにされても、
いじめられても からかわれても
自分自身を受け入れて、愛してあげよう
だって それがあなたなんだから
たとえゲイでも ストレートでも バイでも
レズビアンでも トランスでも 間違ってなんかいないのよ
私は正しい道を歩んでいるわ、ベイビー
生き抜くために生まれてきたの
ブラックでもホワイトでもベージュでも
チョーラでも東洋人でも
私は正しい道を歩んでいるわ、ベイビー
勇敢に生きるために生まれてきたの



和訳あり!レディー・ガガ、『Born This Way』の全歌詞を発表!
http://www.ladygagajapan.com/2011/01/28/lady-gaga-japan-3373

そこには、文字通りすべてのマイノリティを「名指しで」肯定する言葉が歌われている。歌っているメッセージとしては“世界に一つだけの花”とそう変わらない、よくある自己肯定ソングだというむきもあるだろう。しかし、「ブラックでも、ホワイトでも」「ゲイでもストレートでもバイでもレズビアンでもトランスでも」と、人種や性のマジョリティとマイノリティを連呼したことに、この歌の大きな意味がある。「どのように生まれても、それは間違いじゃない」という歌詞のメッセージは、「ゲイ・カルチャーをメインストリームに注入したい」と語っていたガガにとって直球ストレートのものだろう。セレブリティに対して皮肉と悪意で擬態してきたガガは、ここでいよいよ「伝えるべきもの」を背負ったのだと思う。

だからこそ、マリア・アラゴンのエピソードも大きな意味を持つ。こちらの詳しい経緯は以下のページを参照。

■レディー・ガガが感涙した“歌ってみた”動画の少女、ついに夢のデュエットを実現。 | DDN JAPAN / (DIGITAL DJ Network)
http://japan.digitaldj-network.com/archives/51855926.html




エピソードは、カナダ在住の10歳の少女がアップロードした上の“Born This Way”の動画をガガがツイッターで紹介し

Can't stop crying watching this. This is why I make music. She is the future.

これを観て涙が止まらない。これが私が音楽を作る理由なの。彼女こそ未来。



とツイートしたことから始まる(ちなみにこれが、先のレディオヘッドのツイートと同じ2月17日のこと)。これが引き金になりマリア・アラゴンの動画はYouTubeで1日120万回以上の閲覧、アップロードから1週間足らずで全国ネット出演、3月3日にはトロントで共演と、一気にシンデレラガールとなる。ウォーホルが予言していた「15分で誰でも有名人になれるだろう」という言葉を、何のメタファーでもなく文字通り実現してしまったわけだ。


 そして、やはりここで大きな意味を持つのはマリア・アラゴンがカナダ在住のフィリピン系の少女であることだ。僕は、ガガは彼女が人種的なマイノリティであったからこそ「これが私が音楽を作る理由なの」とツイートしたのだろうと思っている。“ボーン・ディス・ウェイ”のテーマは「マイノリティを肯定する」ことであり、マリア・アラゴンのシンデレラ・ストーリーこそが、曲で歌われている内容を現実世界に具現化したもの」なのである。


まだまだ書き足りないので、続きは次回にて。

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レディー・ガガを熱く語りたい「その1:ソーシャルメディア時代のアンディ・ウォーホル」

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レディー・ガガのセカンド・アルバム『ボーン・ディス・ウェイ』が5月23日に発売される。


ボーン・ディス・ウェイ (スペシャル・エディション(2CD))ボーン・ディス・ウェイ (スペシャル・エディション(2CD))
(2011/05/23)
レディー・ガガ

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ひょっとしたら、今の日本で彼女ほど「批評されていない」洋楽アーティストはいないんじゃないだろうか。もちろん、知名度は抜群にある。セールスもある。Android auのCMもガンガンOAされてるし、“生肉ビキニ”の頃から奇抜なパフォーマンスは数々のニュースを賑わしてきた。そういう風に「セレブを面白がる」ような切り口で取り上げられることも多い。そのファッションを取り上げた雑誌や書籍も多く刊行されている。でも、音楽を批評する役目の人がレディー・ガガに関して語るべきことが、ほとんど語られていない気がするのだ。

レディー・ガガは一体何をしようとしているのか、どうして変な格好をするのか、どういうメッセージを放っているのか。何故時代の象徴=ポップ・アイコンになったのか。そういうことが、もっと語られてもいいと思う。

そう思った発端の出来事は、去年の秋に出たSNOOZER「洋楽文化絶滅カウントダウン」特集に収録されたクロストークを読んだこと。

(前略)小林「これからCDの売上げ伸ばすのは無理ですよね」
川原「でも、こうして見ると、売れてますよ(笑)。邦楽でも1万とかじゃ大変じゃないですか? そっから見れば。レディー・ガガなんて、26万4千枚売れてるんだ」
●『ザ・モンスター』とかリミクスの方が売れてるって噂もあります。『ザ・モンスター』はお得感があるから。
川原「けど本当、10年前とかだったら、300万枚とかっていうレベルだったと思いますよ。でも、オリコンでもずーっと上の方入ってるじゃないですか? 邦楽の中に混じって。洋楽が売れないとは思わないんだよな」
田中「でも、レディー・ガガは売れるっていうのは、10年遅れで日本でセレブリティ・カルチャーっていうのが一般化したことの反映でしかないと思うけど。有名人の関連アイテムとして売れてることでしかないから。レディー・ガガが音楽を作る人じゃなかったら、そっちの方が売れるだろう、みたいな」
●ああ、服だったら服が売れただろう、と。
田中「そうそう」



これは、さすがに読んだ時にがっくりきた。もちろん雑誌のスタンスとしてインディー勢を中心にエッジの立った音楽カルチャーを紹介していくのは批評軸として全然ありだと思うし、そうなるとレディー・ガガというのは「仮想敵」になるだろうから乱暴な切り口で語るのは当然だと思うんだろうけど、それをセレブのファッションアイテムでしかないと断じてしまう時代解釈はさすがにズレ過ぎてるだろう、と。26万4千人に対して「音楽なんて興味ないんでしょ?」という態度をとるなら、そりゃあ当然「洋楽文化絶滅」だろう、と。


ロッキング・オン誌の昨年6月の表紙巻頭特集も、ライヴレポートとインタヴューと論考からなる興味深い内容だったけれど、以下のリード文は、正直ピンとこなかった。

ガガの表現には、その根源にウォーホルやボウイ、クイーン、そしてキューブリックといったポップ・アートに宿る「気の狂れた美」が息づく。国も時代もすっ飛ばし、それらのリファレンスをつぎはぎして人間ポップ・アートになる。そしてそれは、最初から何もかもが破壊されていて、何が正義かとか何が標準かとか、正しいロックやポップの物語は何なのかとか、そういう価値判断そのものがもはやストリートレベルでは存在しない――そんな今という時代の象徴として、あっというまに伝搬していった。



正直、「うーん、何が言いたいのかなぁ……」と読んでて思ってしまった。この手の力んだ文章よりも、ソーシャルメディアの専門家が書いた下のブログ記事のほうが格段に「ガガが時代の象徴としてあっというまに伝搬していった」理由がすんなり納得できた。

レディー・ガガはソーシャルメディアをたくみに活用し,米国でも最も強力なブランドの一つに成長した。



「レディー・ガガに学ぶソーシャルメディア活用最前線」
http://blogs.itmedia.co.jp/saito/2010/02/post-e25c.html

つまりガガは「ソーシャル時代に生まれた最初の巨大なバイラルスター」だ、ということ。上記2誌は、00年代の音楽消費とコミュニケーションにおいてソーシャルメディアが最重要の役割を果たすことになったことを「見えてない」もしくは「見ないふりをしている」がゆえに、ピントの外れた文章になったのだろう、と思っている。

とはいえ、いまやアメリカやイギリスでソーシャルメディアを活用「していない」ミュージシャンなんて、殆どいない。myspace発のブレイクなんてそれこそ00年代半ばからあったし、YouTubeだってFacebookだってtwitterだって、皆やっている。それらのアーティストとレディー・ガガとの大きな違いは、「アーティストの“生き様”自体がバイラル・パワーの源泉となっている」ということ。そこで奇抜なファッションや挑発的なパフォーマンスが活きてくる。




上記の映像で「彼女の衣装やパフォーマンスに無関心でいられない。彼女の“存在”自体が話題なの」と語られているのは、そういうこと。そして大きな意味を持つのは、その挑発的なパフォーマンスをポップ・アイコンとして誰かに「やらされている」のではなく、レディー・ガガ本人の発信としてやっているということ。今のポップ・ミュージック・ファンは、仕掛けられたバイラル・マーケティングに安々と乗っかるほど尻軽じゃない、と僕は思っている。いくら奇抜な格好をしたって、それが単なる話題作りだと見抜かれたら熱は醒める。「アーティストの“生き様”自体がバイラル・パワーの源泉となっている」ということを徹底したからこそ、ガガは「ソーシャルメディアの女王」になったと思うのだ。

そういう意味では、前述のロッキング・オンの特集でライターの小田島久恵さんが

ガガがインタヴューで「もし自分が70年代に生きていたら、ウォーホールのミューズの一人で終わっていた」と語っているのが面白い。21世紀を生きる彼女がメジャーなスターになったのは、70年代と現代ではコンテキストが全く違うからだ。


クラウス・ノミやグレース・ジョーンズも敬愛するガガにとって、過去のキワモノ・スターたちは全て自分の先祖のようなものだろう。彼らの存在はガガを勇気づける。ガガがこの時代に巻き起こそうとしているのは、かつて存在したエキセントリック・ヒーローが生きた「祭り」の時間だからだ。


と語っているのは、非常に納得がいく。レディー・ガガは尊敬するアーティストとしてデヴィッド・ボウイとアンディー・ウォーホールを挙げている。どちらもカウンター・カルチャー的な価値観を持ちながら「存在自体が話題」となることで巨大なポップ性を獲得したアーティストである。

ただし、ここで語られている「祭り」というのは、かつてはテレビや雑誌などメディアが旗を振り「上から情報が降り注ぐ」ようなメディアのコンテクストの中で成立したものだった。しかし、それは今の時代においては、twitterやFacebookなど様々なリアルタイム・ウェブを発信源としたユーザー発の共時的な体験として、いわば「下から無数の泡が生まれる」ように成立するものへと変化している。21世紀には、「祭り」は「ソーシャルストリーム」として具現化するものになっている。

僕はレディー・ガガを「ソーシャルメディア時代のアンディ・ウォーホル」だと思っている。そう考えると、そのポップ性も、話題を呼ぶ振る舞いも、すごく腑に落ちる。ちなみに、ガガはウォーホールの名言「15分で誰でも有名人になれるだろう(In 15 minutes everybody will be famous.)」を、文字通りの形で実現することになるのだけれど、その話はまた今度。

もう一つ興味深い記事があった。

「誰もがLady GAGAになれるわけではないけれど」
http://agora-web.jp/archives/1276349.html

「音楽とはもはやCDやカセットのような媒体の中にあるものではなく、ネット上に流れて公開され、共有されるファイルでありストリーム」


上記は、DVDのインタヴューでガガ本人が語っていた言葉。上に書いたようなことは、レディー・ガガ本人はデビューの時点でクリアに見えていたのだろう。だからこそこれだけの巨大な成功を果たしたのだと思う。やはり、とても聡明な女性だと思う。


そして、もう一つ大事な要素がある。彼女は常にマイノリティ側の人間であり、それをしっかりと公言してきたということ。

「私はゲイ・カルチャーをメインストリームに注入したいの。アンダーグラウンドなんかじゃないわ。私の人生のすべて。私がやりたいのは、世界をゲイに変えること」



これも、レディー・ガガ本人の発言。これは新曲“ボーン・ディス・ウェイ”に繋がる軸になっていく。

ちょっと話が長くなりすぎたので、今日はここまで。次回は「レディオヘッドvsレディー・ガガの仁義なきバイラル戦争」について。


『音楽と人』2011年6月号

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音楽と人 2011年 06月号 [雑誌]音楽と人 2011年 06月号 [雑誌]
(2011/05/06)
不明

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『音楽と人』6月号に記事を書きました。

RADWIMPS「命」のツアー、最速ルポ
――彼らが引き受けた“約束の旅”について


というタイトルで、RADWIMPS「絶対延命」ツアー4月23日マリンメッセ福岡のレポート原稿を書いています。

いわゆる“ネタバレ”を防ぐためライヴ本編の内容には殆ど触れずに6000字超のレポートを書くという内容は、僕としても初めてのことでした。でも、何かが憑依したかのように一晩でそれを書き上げたのも不思議なことでした。

原稿にも書きましたが、ライヴは本当に素晴らしいものでした。


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