日々の音色とことば:

移転しました。新URLはhttp://shiba710.hateblo.jp/です。ここは更新されませんがアーカイブを置いておきます
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サカナクション“夜の踊り子”と、暗がりを歩く子供たちの「リトルネロ」

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■人はリズムとメロディがないと、繰り返しに耐えることができない



たぶん、最初にそのことを思いついたのは、友人と飲みながらの他愛もない会話がきっかけだったと思う。

「アパレルショップの店員って、なんで“歌う”んだろうね?」
「歌う?」
「昔に柳原可奈子がよくモノマネしてたじゃん。『いらっしゃいませ~、いらっしゃいませ~』って、独特の節回しで言ってるやつ。あれって、俺、歌だと思うんだよね」
「ああ、なるほど。そういうことね。でもそういったらコンビニだってマックだって、『いらっしゃいませ』は、かなりの人が節をつけて言ってると思うよ」
「たしかに。じゃあ、逆に絶対に歌わない人、『いらっしゃいませ』に節をつけない職場ってあるのかな」
「ホテルマンとか?」
「たしかに。あいつらは厳しい規律があるからな、きっと。よう知らんけど」
「他にも“歌う”人達っているかな?」
「そうだなあ、石焼きイモのおっちゃんなんか、まさにそうでしょ。あと、さおだけ屋とか」
「そうそう! あの『♪いしやきいも~』ってメロディ、誰が考えたんだろうね」
「わからん。あと、電車の車掌さんとかもそうだよね。『♪つぎは~』って、あれ、メロディになってる。あと、たまにめちゃいい声の車掌さんがいる(笑)」

話題はそのまま他のところに流れていって飲み会は終わったんだけど、その後も僕の中には、川の流れの中にあるちょっとしたよどみのように、最初の疑問がぐるぐるしていた。

「なんで、あの人たちは、歌うんだろう?」

アパレルショップの店員も、石焼きイモのおっちゃんも、別にあのメロディを誰かから習ったわけじゃない。周りがそうしてるから、って理由の人もいるとは思うけど、それにしたって最初に歌い始めた人はいるだろう。

そこで一つ思い当たったのは、ショップ店員の「♪いらっしゃいませ~」も、おっちゃんの「♪いしやきいも~」も、繰り返しである、ということ。ずっと、ずーっと、一つの言葉を繰り返す。そうしているうちに、自然と節回しが生まれる。たぶん、こういうことだ。

人は、メロディがないと、繰り返しに耐えられない。

そういうことなら、僕にも思い当たるふしがある。まだ学生の頃。パン工場で徹夜のアルバイトをしたことがあった。友達から「クリスマス前の時期はパン工場のバイトがヌルい」と聞いて、応募したんだった。いわく、「流れてくるショートケーキにイチゴを乗せるだけの簡単なお仕事です」。でも、実際に行ってみたら、かなり辛かった。肉体的な疲労というよりも、ベルトコンベアの前で何時間も繰り返し作業する仕事自体に慣れていなかったんだと思う。で、そのときに、僕はテクノ・ミュージックを思い浮かべた。たしか、好きだったマーク・ベルのLFO。ベルトコンベアの機械の「ギー、ガチャン」「ギー、ガチャン」にあわせて、右足のかかとで四つ打ちのキックを踏む。頭の中に音楽が鳴る。そうすると、自分の行動が、作業から演奏に変わる。あの時の自分はきっと、リズムがないと、繰り返しに耐えられなかったんだと思う。

単調な反復は人の行為や言葉から「意味」を奪う。

だから、人はリズムとメロディがないと、繰り返しに耐えることができない。特に、目の前にいる「あなた」ではなく、どこかの目に見えない「誰か」にむけて呼びかける言葉をコピペのように繰り返し発し続けることは、その人から人間らしさを奪う。それを取り戻すために、歌が生まれる。音楽が生まれる。

夏を過ごしながら、僕は、そんなことを、つらつらと考えていた。これ、ひょっとしたら大発見なんじゃない?とか思っていた。でも、そんなことはとっくに昔のエライ人が気付いていたことだった。

■デモの群衆はなぜ歌うのか



それを知ったきっかけが、五野井郁夫さんの書いた『「デモ」とは何か』という本。引用します。

わたしたちは、一九六〇~一九七〇年代のイメージから、デモというと、どうしてもカオス的で暴力的なイメージを持ってしまうが、それもマスメディアがつくりあげてきた「スペクタクル」としてのデモのイメージにすぎない。では、そのデモに歌がくわわると、どのような効果が生まれるのだろうか。ドゥルーズ=ガタリは、歌の持つ力について次のように説く。「歌はカオスからとびだしてカオスのなかに秩序をつくりはじめる。ひとりの子どもが、学校の宿題をこなすために、力を集中しようとして小声で歌う。ひとりの主婦が鼻歌を口ずさんだり、ラジオをつけたりする。そうすることで自分の仕事に、カオスに対抗する力を持たせているのだ。(ドゥルーズ=ガタリ「ミルプラトー」)。歌がカオスから秩序を導き出すことを確認した上で、ドゥルーズ=ガタリが同書で案出した「リトルネロ」という概念に注目したい。リトルネロとは、音楽用語である「リフレイン」を哲学用語化した概念である。たとえば幼児が暗がりを歩くときに、おびえをなくすために口ずさむ歌。このささやかながらも自身の立ち位置と存立しうるテリトリーを必死に保ちつつ、「どうにか先に進んでゆく」ために、くりかえしおこなう反復行為と表現を、リトルネロと呼んだ。

(『「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義』五野井郁夫より)



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この一節を読んだとき、「マジかよ、ドゥルーズ=ガタリが言ってたのか!」って思ってしまった。「ドゥルーズ=ガタリ」とは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神科医フェリックス・ガタリのふたりのこと。正直、知ってたのは名前だけだった。むしろ遠ざけてた。「エラそうな哲学の人」くらいのイメージしかなかった。ずっと昔に入門書を読んだ覚えもあるけど、あまりに難解で断念してた。でも、このリトルネロという概念を考えると、いろんなことが、すとんと腑に落ちる。

デモの群衆はなぜ歌うのか。それは、金曜日の夕方に首相官邸周辺に足を運んだときにも思ったことだった。「どん、ど、どん、どどん。♪さいかどう~ はんた~い」。あそこで僕が聴いた沢山の人たちの声は、怒号ではなかった。太鼓が叩き出すリズムと、いつのまにか生まれたメロディに乗せた、歌だった。

なるほどなあ、歌の力に頼らないと、あんな風に数万人が繰り返し一つのことを訴え続けるのは無理だよな。僕はそんな風に思った。こんなこと言ったら真面目にデモやってる人には怒られるかもしれないけど、僕はそこに、ショップ店員の「♪いらっしゃいませ~」や、おっちゃんの「♪いしやきいも~」に通じるものを、感じていた。

■幼児が暗がりを歩くときに、おびえをなくすために口ずさむ歌



で、ここから本題。

このドゥルーズ=ガタリが書いたリトルネロ(=リフレイン)という概念を知ったときに、直感で、サカナクションのことが思い浮かんだ。

何故かはわからない。でも、リトルネロについての「幼児が暗がりを歩くときに、おびえをなくすために口ずさむ歌」という表現が、すごく気になった。で、原典をあたってみようと思って、図書館に行って『千のプラトー』を借りてきた。


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相変わらず文章は難解で、やっぱり読み進めるのは断念してしまったけど、リトルネロについて書かれたところだけは、すぅっと入ってきた。そして、直感は確信に変わった。

サカナクションの新曲“夜の踊り子”は、リトルネロについての歌だ。




たぶんこの曲は、暗がりを歩く子どもたちが「どうにか先に進んでゆく」ために口ずさむメロディについて、書いた曲だ。そうやって考えていくと、いろんなことが符合する。

ドゥルーズ=ガタリが書いたリトルネロについての話は、童話のようなストーリーを持つ小さな掌編だ。それは三つのパートからなる。それぞれが、リトルネロの三段階の効用を示している。

わかりやすい解説を見つけたので、これも引用します。

【リトルネロ、差異と反復】

ドゥルーズは、「リトルネロ」の冒頭でこんな話をしています。幼子がひとり、暗くて怖い森を歩いている。そこで子供は歌を口ずさむ。小声で何度も同じフレーズを反復する。小さな自分のうちに森の夜が浸透してきて、自分が圧倒されそうなときに、自分の領域を無力ながらもなんとか保とうとする最初の行為、これがリトルネロだと言うわけです。つまり、一定の秩序を持った歌をまわりに鳴り響かせ、しかもそれを反復して持続させる、これが秩序の原初的な形態なのです。真っ暗でどこにも差異が見いだせないような夜のうちに、こうしてささやかな中心が定まる。「小声で歌を歌えば安心だ」というわけです。

次の段階です。その子が、自分のおうちに帰り着き、自分のテリトリー(領土)を確立して、その中で、さらに自分の領域を強化し、集中する。そんなときにもリトルネロを口ずさむ。学校の宿題をこなすとき、力を集中するために小声で歌うといったイメージです。リズムをとって、ドリルをガンガン片付けていく、そういう感じです。ところがその次の局面で、その子はドリルに飽きてしまう。その子はささやかな歌に身を任せて、家の外にもう一度出て行くわけです。

ドゥルーズはリトルネロについてこのような三つの局面を描くことで、リフレイン自体のうちに、領域を形成するだけではなく、そこから外に出て行こうとする要素が含まれていることを示そうとしているのだと思います。リフレインはフレーズを反復するのだけど、それは反復であると同時に、違ったものをそこの中に折り込んでいくことであり、反復を通じて自ら違ったものに変化していくことだ、とドゥルーズは考えているわけです。


BOOKSTEADY Lesson.1 7/13「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」
http://donnerlemot.com/2011/01/28000859.html


■音楽讃歌としての“夜の踊り子”



この、リトルネロの3つの局面が、“夜の踊り子”の歌詞のそれぞれのパートに対応している。

跳ねた跳ねた 僕は跳ねた 小学生みたいに
雨上がりの夜に跳ねた 水切りみたいに


どこへ行こう どこへ行こう ここに居ようとしてる?
逃げるよ 逃げるよ あと少しだけ



冒頭のAメロからCメロ(サビ)までの部分は、小さな子供がひとり、暗くて怖い森を歩いている場面。森の夜が浸透してきて、圧倒されそうなときに、自分の領域を無力ながらもなんとか保とうとする、そういう時に口ずさむ歌としての、リトルネロ。

ちなみに「暗くて怖い森の夜」は、けっしてファンタジーのイメージではない。単なる怖い暗がりのことではない。それはいろんなものを指し示すメタファになっている。たとえば、将来の見通しが不透明なモラトリアムの漠然とした不安かもしれない。カップリングの“multiple exposure”で歌われている《そう生きづらい そう生きづらい そう言い切れない僕らは迷った鳥》という言葉でストレートに表現されている「息苦しさ」なのかもしれない。

僕の解釈では、「暗くて怖い森の夜」は、さっき書いた「人の行為や言葉から意味(=人間らしさ)を奪う単調な反復」のメタファだと思っている。村上春樹のエルサレム賞スピーチの言葉を借りるなら、「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵」の、高くて固い壁のほう。システムに順応していくことが「生きる」ことだという無意識下の納得が駆動する「生きづらさ」の圧力。それは2012年の今も、きっと沢山の人がリアルに感じているものだと思う。

そして、2番のAメロからCメロ(サビ)、そして最初の大サビの部分が、「リトルネロ」の二つ目の場面にあたる。

消えた消えた 君が消えた 蜃気楼みたいに
にわか雨の音も消えた さよなら言うように


どこへ行こう どこへ行こう ここに居ようとしてる?
逃げても 逃げても 音はもうしなくて



ささやかな歌を口ずさんでいた幼い子は、自分の家に帰り着く。「にわか雨」=「怖い暗がり」の音は消えた。もう逃げることはしない。自分のテリトリーを確立する。そこで自分のやるべきことに集中するようなときにも、その子はリトルネロを口ずさむ。たとえば学校の宿題をこなすようなときも、力を集中するために、小声で歌う。

そして、三つ目の場面。リトルネロの力を得たその子は、ささやかな歌に身を任せて、家の外にもう一度出て行く。もう一度、こんどは身体の中からみなぎる勇気と共に、外の世界に向かっていくわけだ。それが3番のCメロからラストの歌詞に相当する。

行けるよ 行けるよ 遠くへ行こうとしてる
イメージしよう イメージしよう 自分が思うほうへ


笑っていたいだろう


さらに。この曲にはドゥルーズが言う“リトルネロ”そのものも、含まれている。それがつまり、『モード学園』CMで先行公開されていた大サビ(=リフレイン)の部分。

リトルネロは、単なる同じフレーズの繰り返しじゃない。反復の中に、少しずつ違った要素が織り込まれている。だからこそ、その繰り返しを通じて、自ら違ったものに少しずつ変化していくことができる。そのことが何より重要だというのが、ドゥルーズの言ってることだ。つまりそれが、「反復と差異」。それを踏まえて、この曲のリフレイン部分の歌詞が、これ。

雨になって何分か後に行く
今泣いて何分か後に行く
今泣いて何分か後の自分

今泣いて何分か後に言う
今泣いて何年か後の自分



見事なまでに「反復と差異」になっている。同じようなフレーズの反復であると同時に、違った要素をその中に織り込んでいく歌詞になっている。

リズムに乗せて反復される歌の言葉は、グラデーションのように少しずつ色を変え、それは、暗がりを歩く子供たちの力になる。だからこそ、この曲においても、ここが最も大事な部分としてフィーチャーされている。CMでもこの部分が使われたし、ジャケットも、この部分の歌詞に通じる表現になっている。

歌詞だけの話じゃない。実は、テクノとかダンス・ミュージックが根っ子のほうで持ってる魅力も、この「反復と差異」で語ることができる。たとえばミニマル・テクノなんてものがあるように、テクノやダンス・ミュージックの音楽的なベースは、一つのビートやフレーズを同じBPMで繰り返していくことにある。だから、ひょっとしたら、耳馴染みのない人にとってはただの単調な繰り返しに思えてしまうかもしれない。けれど、よく聴くとそれは違うことがわかる。同じビートの上で、少しずつ音の位相が変わっていく。そうして少しずつ絶頂まで上り詰めていき、最終的にはそれが人を高揚感や多幸感で一杯にする。“夜の踊り子”は、テクノやダンス・ミュージックの「反復と差異」がもたらす、そういうポジティヴな効果について書かれた曲でも、ある。

なんてね。

もちろん、ここに書いてきたことは、ぜんぶ単なる僕の深読みだ。でも、こうして考えていくと、いろんなパズルのピースがピタリとハマったような感じがする。

“夜の踊り子”は、いわゆる「音楽讃歌」なんだと、僕は思っている。フジロックのホワイト・ステージで、まだほとんど誰も聴いたことのない状態なのに、この曲がうねりのような歓声を呼び起こしたのも、きっとそのことが感覚で伝わったんだと思う。

だからこそ、この曲が持つ「リトルネロの力」が、いろんな人に届けばいいな、と。


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2012年の「シーンの垣根を壊した5曲」(その1)

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2012年も半分以上がすぎ、自分が聴いてきた、熱くなった音楽を振り返る。

いろんなことを語りたいんだけど、特に、ボーカロイドやインターネットミュージックを基点にした音楽に、やっぱり重要な起点となる曲をいくつも知ることができた実感がある。ぐつぐつと渦巻く噴火前のマグマみたいなものじゃなくて、ちゃんとそれが成熟した形で花開いたものとしてのキーポイントを示すアンセミックな曲、というか。

2012年は変化の年になるはずなので、ちゃんと今のうちに、点と点を線でつないでおこうと思う。そういう5曲。

■米津玄師 『vivi』




この人については、もうきっと知っている人のほうが多いと思う。ボーカロイドPとして既に大きな人気を獲得していたハチというクリエイターが本名の「米津玄師」として自分の声で歌い、今年5月に1stアルバム『diorama』をリリース。彼のデビューは、明らかに一つの分水嶺になった。

「たとえば椎名林檎がそうであったように、あるいはBUMP OF CHICKENがそうであったように、ひとつの音楽がその後のシーンの流れを変えてしまうことがある。5月16日発売のアルバム『diorama』でデビューする米津玄師という存在は、間違いなくそういうものだ」
(『MUSICA』6月号より)



「間違いなく10年に1度の才能を持ったとんでもないアーティストである。米津玄師は音楽シーンを一気に進化させ、変えてしまう力量を持つアーティストだ。このデビュー・アルバム『diorama』から、日本の音楽シーンは新しい時代を迎えることになる」
(『ROCKIN’ON JAPAN』7月号より)


こうやって音楽誌の煽り文句を並べると、皮肉っぽい見方をするなら、いかにも『NME』っぽいハイプに思えたりもして。でも、実際、僕だって音源が届いて初めて聴いたときには同じことを考えてたんだから、しょうがない。鳥肌が立つような、ゾクゾクした感触を覚えたのが、今でも記憶に残っている。

でも、改めて考えてみると、彼の紹介において「音楽シーン」って言葉を使っちゃうのって、わりと無自覚なことだよなあ、と自戒を込めて思ったりもする。彼がボーカロイドP「ハチ」として活動を始めたのは2009年のことで、初のミリオン達成曲“結ンデ開イテ羅刹ト骸”も、その年の夏の発表。



すでにここには、後の『diorama』にも散見される彼のオリジナリティ、不穏な不協和音とノイズを用いた過剰な作風の萌芽が表れている。そして、僕が彼のことを知ったのはその後の“マトリョシカ”がきっかけ。2011年のことだったと思う。すでにその時のカラオケのランキングで1位になっていた。すでにそこには「シーン」があったし、そこで彼はちゃんと才能を発揮し、それを人気につなげていたのだ。そういう考え方をすると、彼は、いわゆるロック雑誌がいう音楽シーンに「登場した」のではなく「発見された」というほうが、正しいということになる。

まあ、そういうのは、言ってみれば瑣末な話。大きいのは、彼の登場が、明らかに「垣根を壊した」ということ。他にも才能を持ったボカロPは沢山いるし、去年から、ボカロPがメジャーデビューを果たす流れも増えてきている。けれど、なぜ彼の登場が決定打になったのか。やっぱりそれは、いろんな人が言っているように、圧倒的な情報の奔流が前提になり誰もが簡単に誰かにアクセスできるようになった「00年代以降」の現実を前提にしたサウンドのセンスと、それでも「みんなと、そしてあなたとは、決してひとつになれない」という巨大な孤独感が、音楽に結実しているからだと思う。

愛してるよ、ビビ 明日になれば
バイバイしなくちゃいけない僕だ
灰になりそうな まどろむ街を
あなたと共に置いていくのさ
(“Vivi”)



■livetune feat. 初音ミク 『Tell Your World』



でも、そもそも”「みんなと、そしてあなたとは、決してひとつになれない」という巨大な孤独感”なんてものは、ボーカロイドのシーンとは、あまり接点のない感覚なのではないかと、一方で僕は思っていた。むしろ、誰でもが参加できるアイコンとしての側面を、僕はずっと感じていた。

2007年の「初音ミク」の登場から5年。ボーカロイドのシーンは、「初音ミク」というキャラクターを媒介に、様々なクリエイターがそれをN次創作的に共有することで広がってきた。いろんな人が「ひとつになれる」という高揚感と興奮が、その起爆剤になった。それが大きなエンジンになって、沢山の新しい表現のフィールドが広がってきた。もちろん人によって考え方は違うけれど、僕はそういう風に捉えている。



去年の末に公開され、『Tell Your World EP』として今年3月にリリースされたlivetune feat. 初音ミク 『Tell Your World』。「Google Chrome」のCMのために作られたこの曲は、そういうことを表現した曲。ボーカロイドだけでなく、インターネットとソーシャルメディアが普及したおかげで「みんな」に広がった可能性を、鮮烈なメロディとクリアな言葉で歌い上げた曲だった。

”基本的に楽曲を作る作業ってひとりで進めるじゃないですか。それがインターネットを通じてたくさんの人とつながることで、イラストや動画、ダンスなど、クリエイター同士の縁が広がっていくんですね。僕が感じたそんなインターネットのすごさを、もっと感動的にとらえてもいいんじゃないかと思ったんです。”


(ナタリー - [Power Push] livetune)
http://natalie.mu/music/pp/livetune

これは作曲者、kz(livetune)の言葉。そもそも、彼自身がボーカロイドの、そしてインターネットミュージックシーンのパイオニアであったことが、この曲の持つ物語と意味の強度を、とても強固なものにしている。”Packaged”の発表は2007年9月、そしてメジャーからのアルバム『Re:package』のリリースは2008年。



彼はこうも言っている。

“ソーシャルメディアの発達によって解放された全ての表現者たちへのアンセムです。僕自身、今こうして色々な音楽を作ることができているのはインターネットのおかげだと思ってるので、インターネットに対する愛の歌でもあります。”


(HMV『Tell Your World』発売記念インタビュー)
http://www.hmv.co.jp/news/article/1203010088/

そして、やはりここでも、大きかったのは歌詞だと僕は考えている。「インターネットに対する愛の歌」をとても高い純度で形にした強い言葉の力が、この曲をアンセムにしたんだと思う。

君に伝えたいことが 君に届けたいことが
たくさんの点は線になって 遠く彼方へと響く
君に伝えたい言葉 君に届けたい音が
いくつもの線は円になって 全て繋げてく
どこにだって
(“Tell Your World”)




そして。

livetuneが"Tell Your World"で表現した「みんなが一つになることができる」ことの高揚感と、米津玄師の「目の前のあなたと一つになれない」“Vivi”の孤独感は、コインの裏表のようなものだ。どちらが嘘で、どちらが本当ではない。90年代のイギリスに喩えるなら、アンダーワールドの“Rez”とレディオヘッドの“クリープ”、みたいなね。両方が、とても純度の高い音楽になる。アンセムになる。

そういうものが生まれたのが、2012年の日本だったと思うのだ。

(まだまだ続くよ)


雷雨中断のRADWIMPS at SETSTOCK '12 レポート

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ライヴが終わったあと、しばらく呆然としていた。放心状態だった。それくらいの体験だった。


10周年を迎えた西日本最大級の野外フェス「SETSTOCK '12」。その1日目のヘッドライナーをつとめたのがRADWIMPSだった。ちなみに、彼らが2012年に出演した夏フェスは、「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2012 in EZO」とこのフェスの二つだけ。すごくレアな場だったし、キャリアの上での重要なマイルストーンを示すシングル『シュプレヒコール』をリリースしてからの大事なライヴの場所だった。それを目撃したいと思って、会場に向かった。

会場についたのは正午12時頃。その頃の会場の写真がこれ。





眩しく照りつける太陽。でも芝生が広がり木々が点在する丘には、時折風が吹き抜ける。快晴の一日。この時点では、あんなステージになるなんて、誰も想像していなかったと思う。

この日出演したその他のアクトの速報レポートは、以下のページに書きました。

SETSTOCK'12 速報レポート | Just another NEXUS site
http://www.nexus-web.net/column/setstock/

ここに書いてある通り、夕暮れまで、とても心地いい空気だった。後で知った情報によると、この地域の雨雲レーダーは19時30分頃から強い雷雨を予報していたらしい。もちろん、会場にいた2万人のほぼ全員は、あの時点ではそのことは全く知らない。

19時15分。桑原彰、武田祐介、山口智史、そして野田洋次郎の4人が登場。大歓声。おそらく彼らを一番の目当てに集まった人たちなんだろう。興奮が伝わってくる。1曲目は“DADA”。スネアのイントロから、爆発するようなアンサンブルに飛び込む。目線で会話する4人の息遣いが伝わるような演奏。すごい! すごい!と思っていると、顔にポタリと水滴が落ちる。雨?

続いては、“ます。”“有心論”。どちらもメジャー2ndアルバム『RADWIMPS 4 ~おかずのごはん~』に収録されたナンバー。疾走する2ビートのサビに飛び込んでいく“ます。”と、半径の大きなメロディで包み込むような“有心論”。どちらも過去の曲だけれど、『絶体絶命』を経て格段にブラッシュアップされたバンド・アンサンブルで鳴らされる。《息を止めると心があったよ そこを開くと君がいたんだよ》。会場から合唱の声が上がる。次第に雨が強くなる。

そして、“G行為”。打ち込みのビートの向こう側に、雷の音が響き始める。ドーン、ドーンという低い音。バーン!という爆音。強くなる雨。曲調の不穏さに拍車をかけるように、稲光が瞬く。大丈夫? そんな風に見回す表情がちらほらと見え始める。そして、スタッフがメンバーに駆け寄り、音が止む。

雷雨により、一時中断。スタッフがステージからアナウンスをする。「近くに雷が落ちました。みなさんは、落ち着いて、ゆっくりとその場にしゃがんでください」「木やテントから離れて下さい」。その時のツイートと写真がこれ。



後々思えば、パニックが起こらないように、そして安全を考えて高い木に近づかないよう誘導したスタッフの方の尽力は素晴らしかったと思う。僕はバックステージのテントに戻り、Webレポート用のノートPCが雨を浴びないようにビニール袋で覆うなどの作業をしていた。フジロックで毎年活躍しているレインウェアを上から着込んだけれど、それでも服まで水が染みてくるほどだった。雨脚はこれくらい強かった。



そして、40分~50分くらいの時間が経過した。その間、土砂降りの雨の中、じっとしゃがんで待っていたお客さん全員の忍耐力は、すごかったと思う。なにせ、そのままライヴが中止になってしまう可能性だって、あったのだ。僕の脳裏には、いくつかの風景が浮かんだ。2000年、ROCK IN JAPAN FESTIVALの初年度の中村一義。1997年、FUJI ROCK FESTIVAL初年度のレッド・ホット・チリ・ペッパーズ。どちらも台風による中止。僕はそのどちらの場にも居合わせている。後からはいくらでも「伝説」なんて言えるけれど、リアルタイムでのやるせない気持ちは肌身で知っている。こんな形でRADWIMPSのライヴも語り継がれることになるのかな、なんて一瞬思う。

しかし、中止になることはなかった。スタッフから復旧に向けて作業が続いていることが告げられる。安堵のような歓声が上がる。幾分弱まった雨の中、サウンドチェックが続く。





そして、再び4人がステージに登場。

僕は、復旧が決まってからの短い時間のあいだ、野田洋次郎がどんな第一声で戻ってくるのかな?と考えていた。「ごめんね」「待っててくれてありがとう」「大丈夫だった?」。そのどれか、かな。そんな風に思っていた。でも彼の第一声は全然違った。

「%&$#&!!」

文字で書こうとするならそうとしか書けないような、言葉にならないハイトーンの絶叫。思わず鳥肌が立った。「ちくしょう! もう知らねえ! 好き放題やります!」。そして“おしゃかしゃま”。ゾクゾクした。まるでそこら中で火薬が爆発してるみたいな演奏だった。

さぁ無茶しよう そんで苦茶しよう
二つ合わさって無茶苦茶にしよう.

さぁ有耶しよう そんで無耶しよう
二つ合わさって有耶無耶にしよう


この冗談みたいな歌詞の言葉が、あんなにリアリティを持って響いた場所は、僕は他に知らない。まるで天に喧嘩を売ってるみたいだ。そう直感で僕は思った。大抵の人なら「しょうがないよね」であきらめてしまうことすら、全身全霊でひっくり返してしまおうとしているかのようなエネルギー。続けて、“君と羊と青”。やっぱり、途轍もないテンションの高さ。4人が円になって、目を見合わせて演奏する。

そして、“トレモロ”。野田洋次郎はこんな風に言った。「今、こんな天気だけど、この雲の上に満天の星空があるの、想像できますか? お前らの想像力を見せてくれよ」。そして、こう歌い始めた。

満天の空に君の声が 響いてもいいような綺麗な夜
悲しみが悲しみで終わらぬよう せめて地球は周ってみせた




満天の空に君の声が 響いてもいいような綺麗な夜
悲しみが悲しみで終わると疑わぬように 神様は僕に夢を見させた
今開いていたページの上に描いてみようかな
「離さないよ 繋いでたいの 僕は僕の手を」
今 止まっていた景色が動き出した気がしたんだよ





鳥肌が立ちっぱなしだった。音源で聴くより数段激しく、そして強い意志をこめた演奏。歌詞の言葉の持つ意味が、「いま、ここ」の現実とリンクする。そうだ、RADWIMPSは「このこと」を歌ってきたバンドだった。この日はやらなかったけれど、“オーダーメイド”にしても、“シュプレヒコール”にしても、そう。「神様が決めたこと」に対して、「決まってるんだからしょうがないね」じゃなくて「なんでそうなってるんですか?」と問いなおすような曲を歌ってきたバンドだ。だからこそ、再登場のときの第一声が「ごめんね」でも「大丈夫?」でもなくて、言葉にならない叫び声だったんだと思う。

曲を終え、野田洋次郎は、雷雨と嵐による中断のなか、スタッフにライヴを中止する判断の話を持ちかけられたときのことを語る。

「SETSTOCKは2005年からオープニングアクトで出させてもらったフェスで、ウチらが初めて出たフェスで、ウチらが心より愛するフェスです。そのフェスで、初めてトリをつとめさせてもらいました。だから終われねえって言ったんだよ!」

そして「SETSTOCK、10周年おめでとう!」とフェスの歩みを祝い、「ありがとう、愛してます」とオーディエンスに感謝を告げ、未来の再会を約束して、最後に一曲“いいんですか?”。

いつの間にか、雨は上がっていた。あの曲を一緒に歌っていたオーディエンスの一人一人は、ずぶ濡れだったけれど、それでも不思議なほどの肯定感に包まれていたと思う。少なくとも、僕が見回した範囲ではそうだった。そして、終演後には、花火が上がった。ほんの数十分前の豪雨を思うと、ウソみたいな夜空だった。






■想像力が現実を上書きする




中断後からのたった4曲で、とても鮮烈な物語を彼らは描いた。喜怒哀楽のそれぞれの極限、その点と点を結んで線にしたようなステージだった。おそらく、雷雨による中断で誰よりも口惜しい思いを抱えていたのは野田洋次郎本人だったと思う。でも、限られた時間の中で、雷雨の記憶をクリアに塗り替えるようなステージを、彼らは見せた。

帰り道。僕が考えていたのは、「想像力が現実を上書きする」ということについて。あのとき、フィールドでは沢山の人たちが、震えながら膝を抱え、雨に打たれていた。寒かったし、ずぶ濡れだった。あんな状況の中「この雲の上に満天の星空があるの、想像できますか?」なんてことを言える人、なかなかいないと思う。

でも、確かに“トレモロ”を聴きながら、僕はあの公園の上に広がる綺麗な夜空のイメージを思い描くことができた。ひょっとしたら、数年後に振り返ったこの日の記憶の中では、激しい雷雨と、ライヴの興奮と、そして(見えなかったはずの)満天の星空が、一緒になっているかもしれない。

想像力は、ときに目の前の現実を、上書きする。そういうことを可能にするのも、彼らの音楽が持つ不思議な効力のひとつ。

そんなことを考えながら、東京への帰途についた。


[セットリスト]

1.DADA
2.ます。
3.有心論
4.G行為
——————————–
雷雨により中断
——————————–
5.おしゃかしゃま
6.君と羊と青
7.トレモロ
8.いいんですか


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