日々の音色とことば:

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ロンドン暴動と『リトル・ピープルの時代』

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ここ半月くらい、ことあるごとにロンドン暴動のことを考えていた。暴動そのものというより、それが象徴する「暴力」のあり方について考えていた。第一報を聞いてから、「とても対岸の火事とは思えない」と直感的に感じたことがその一つ目の理由。そして、これは音楽の問題、というか想像力の貧困に突き付けられた問題、ということを思ったのがもう一つの理由だ。

僕は暴動に直接関係のある立場ではない。ロンドンには何度か行ったことはあるけれど、燃え上がる火の手を直接見たわけでもないし、発火点となったトットナムの雰囲気を知っているわけでもない。だから、あそこで暴徒になった人達のことを、直接僕は語ることはできない。でも、「何かがおかしい」という感覚が、とにかくあった。何が起こっているのだろうか。なんであいつらは暴れてるんだろう。まずは、在英の人達のツイートを読んだ。


いちばん近いのは日本の「成人式の大暴れ」。あれです。


今回の暴動に参加している連中には「扇動する者」もいなければ「主張」もない。まさに彼らの行動は、ただひたすら「暴力」という「流行」を追っているだけ。レミング的暴走の例えに相応しい愚行だと私は思います。


http://togetter.com/li/172491



上記は、最初に目に入ってきた入江敦彦さんの考察。他にも、多くの在英邦人が彼らのことを「動物だ」「何も考えてない」と斬って捨てていた。でも、僕は正直「え?」と思った。もちろん真実の一面ではあるのだろう。けれど、彼らのことを「動物だ」と見下す視線の集積こそが、この無方向な暴力を生んだのではないのだろうか。もちろん一般の人がそれを語るのはかまわないけれど、作家という職種の人が「自分自身が分断に加担している」という想像力を持っていなくてどうするのだろう?と。

一方で、UKのグライムやロードラップを紹介してきた@BCXXXさんを中心としたまとめが以下。
http://togetter.com/li/172301

ハッとさせられたのは、現地でグライムのシーンを支えてきたDJであるLorgan Samaの一言だった。

「もしこの10年間、この若者たちが作ってきた音楽を無視してきたのでなければ、彼らが何を考えているかわかるはずだ」


http://bit.ly/qIJdtG。


つまり、彼のツイートは「告発」である。グライムやロードラップは、いつでも暴動を起こしうる現地の若者たちの「怒り」とリンクしていた。そのムードと熱を音楽として放ってきた。それが無視されてきたからこそ、みなが「あいつらが何も考えているのかわからない」と言っているのではないか、と。

そして、注目を集めたのが匿名による以下の記事。

報道から明らかになっているのは、暴徒の大半が未成年であること、特定のエスニックグループが暴徒になったわけではないこと、そして多くがロンドンでも貧しいとされる地域の住人であること。加えてもう一つ言えるのは、彼らの多くがカウンシルフラットと呼ばれる、低所得者向けの公営住宅に住んでいると言うことだ。


http://anond.hatelabo.jp/20110816094649

暴動の背景には、中間層とカウンシルフラットの低所得者層との根深い分断があり、低所得者層の側には「いま・ここ」を抜け出す「希望」がなく、中間層にとっては「税金であいつらばっかり優遇しやがって」という「侮蔑」がある。確かに、僕のイギリスの友人も同じようなことをカジュアルに言っていた。

そして、おそらくこれこそが、ロンドン暴動を「対岸の火事」と感じることのできなかった理由なんだろう。同じ問題は日本にもある。中間層からの生活保護層に対する「働かないあいつらは勝ち組だ」的なバッシングは散見されるし、一方で生活保護層は自殺率5倍というデータがある(誰でもいいからみんなを殺したいのと、自分を殺したいのは、等価だ)。この鬱屈と絶望がクロスカウンターする構造は、日本のものでもある。それは当然のことで、その背景にグローバル化した資本主義とネットワークによる社会変化があるからだろう。

で、宇野常寛さんによる新著『リトル・ピープルの時代』。

この本には直接的にロンドンの暴動について触れた箇所は、もちろん一箇所もない。時期も違うし、そもそもイギリスについての言及も全くない。端的に言えば、村上春樹と特撮ヒーロー(ウルトラマンと仮面ライダー)を対比させて、論じた本である。コンテンツ分析を通じて、現代の日本社会を解き明かそうという批評軸が組み立てられている。しかし、おどろくべきことに、この本は上に挙げたどんなレポートよりも、ロンドンに起こった暴動の「構造」を解き明かしている。というか、在英邦人たちの「見えなさ」すらも解き明かしている。読んでいて目から鱗が落ちるような一冊だった。

村上春樹とヒーロー番組の対比で、現代における「暴力」の問題を扱うというコンセプトはもう一年半前にぼんやりとだけどできていました。


http://synodos.livedoor.biz/archives/1813576.html
(SYNODOS インタヴューより)

『リトル・ピープルの時代』においては、ジョージ・オーウェルと村上春樹『1Q84』の造語を借りて、国家を擬人化可能なものとする「大きな物語」に属する思考法を「ビッグ・ブラザー」、ネットワークが世界中に張り巡らされグローバル経済が国家の上位にくる現在の非人格的なシステムやアーキテクチャにのっとった思考法を「リトル・ピープル」という言葉で象徴させている。

疑似人格(ビッグ・ブラザー)化できない「壁」、つまり世界の構造というのがこの本のテーマなんですよ。


http://synodos.livedoor.biz/archives/1813589.html
(同上)

このメタファを援用するならば、ロンドン暴動を語る(上の世代の)人達にとって、暴動はあくまで「反体制」=ビッグ・ブラザー的な想像力で解決できるものであってほしかったはずだ。資本家と労働者の対立だったり、貧困問題をベースにしていたり、60年代的なロジックで語れるわかりやすい階級闘争であってほしかったと思う。だからこそ、現実に暴れている若者たちに何ら思想性がないことに落胆したはずなのだ。

でも、現実に暴れていた若者たちは「リトル・ピープル」だった。彼らは反体制の戦士ではなく、スマートフォン(BlackBerry)で連絡を取り合う「単なる子供たち」だった。暴力を生み出した契機は「ネットワークで繋がったこと」、それそのもの。そこにあった怒りは、グローバル経済がもたらした「疎外」から生まれたもので、つまりビッグ・ブラザー的な「大きな物語」はそのどこにもなかった。『リトル・ピープルの時代』で書かれていた暴力の構造についての話は、そこに表面化した問題をまるで予言しているかように僕には思えた。

そして、最初に書いた「音楽の問題」になる。

70年代のロンドンを描いたパンク・ミュージックとして、THE CLASHの“WHITE RIOT”がある。名曲だと思う。メッセージは古びていないと思う。でも、あそこで歌われていたことと今のロンドン暴動をそのまま繋げられるのだろうか、と考えると僕には疑問符が浮かぶ。たとえば、THE CLASHは社会変革の意志を持っていたけれど、今のガキ共はそれに比べて何も考えちゃいねえ、なんてこき下ろす言い方には、僕はリアリティを感じない。そして、グライムやロードラップは現場の鬱屈と怒りを映し出すが、それは残念ながらTHE CLASHが届いたようには、上の世代に届いていない。それを語るべき「想像力」が不足しているのかもしれない。

『リトル・ピープルの時代』のロジックに準拠して語るならば、THE CLASHの“WHITE RIOT”でロンドン暴動を語るのは、今や役割を終えた「ビッグ・ブラザー」的な想像力を駆動していることに他ならないのではないだろうか。ついでに言うならば「日本で唯一<壁>のあり方を意識している世界的作家」村上春樹は、UKの音楽シーンに敷衍するならば『OKコンピューター』から『キッドA』のレディオヘッドで、その先を誰も描けていないからこそUKロックのシーンに「レディオヘッド以降」の存在が出てきていない(=低迷している)ということなのではないだろうか。

話がまとまらなくなっちゃったかな。

とにかく、そういう意味で、『リトル・ピープルの時代』を僕は非常に面白く読んだ。村上春樹やヒーロー番組やAKB48について書かれている本だけれど、そのロジックは、様々な分野の文化や社会に今起こっていることに敷衍することができる「ツールとしても非常に有用」な一冊だと思う。


リトル・ピープルの時代リトル・ピープルの時代
(2011/07/28)
宇野 常寛

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