日々の音色とことば:

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10-FEETの「つなぐ言葉」と、くるりの「まぜる言葉」

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557日後の邂逅



2012年、9月19日。京都を拠点に活動をする二組のロックバンドが、ニューアルバムを世に発表した。



坩堝の電圧(るつぼのぼるつ)(通常盤)thread



くるりの『坩堝の電圧(るつぼのぼるつ)』と、10-FEETのアルバム『thread』。同世代であり、互いに強い地元への愛情を持ちつつ、様々な音楽の要素を取り込みつつ、10年以上の長いキャリアを続けてきた二つのロックバンド。そう考えると、改めて、とても共通点の多い二組である。でも、両者を並べて評するような論調は、今まで不思議なほど存在していなかった。お互いが属する「シーン」が違うと、日本のロックやポップミュージックを取り扱う多くのメディアが考えていたせいかもしれない。けれど、2枚のアルバムを聴いて、僕は一つの確信に近い見立てを抱いている。

くるりと10-FEETという二組のロックバンドが同日にリリースした2枚のアルバム『坩堝の電圧』と『thread』は、お互いに強く呼応しあうような関係性を持っている。

まるで陰陽の成り立ちを表す「太極図」のように、二つの音楽が、というよりも、それを駆動する意志が、がっぷりと組み合っている。そう僕は感じる。二つの表現が、お互いに補完し合いながら、同じ時代を切り取り、照射するものになっている。どちらが「陰」でどちらが「陽」かは、たいして重要じゃない。それは見る人の視線とその角度によって変わるものだ。大きいのは、くるりも、10-FEETも、それぞれが3・11後の日本に、それぞれのやり方で真摯に向かい合ってきた結実として、この2枚のアルバムを作った、ということだ。

2枚のアルバムは、同じ9月19日に発表された。まあ、発売日が同じだったことは、きっと単なる偶然だろう。示し合わせたようなことは何もないはずだ。でも、そういう偶然の点と点を結んで物語を綴るのが、僕のように音楽メディアで仕事をするライターの役割の一つだと思っている。だから、これは「557日後の邂逅」なのだと、僕は捉えることにする。

物語の発端は、557日前。2011年の3月12日、京都・磔磔に遡る。
この日、ライブハウス磔磔では、くるりの全国ツアー『くるり ニューアルバム発売記念ツアー~言葉にならしまへん、笑顔を見しとくれやしまへんやろか~』のツアーファイナルを含む3日間のイベントの最終日の公演が予定されていた。『音博 vs. 大作戦、結果はgudaguda』と銘打った、くるりと10-FEETの対バン形式のライブだった。その日のことは、その後も、様々な場所で語られている。前日の震災が状況をがらりと変えた。その甚大な被害と電力の問題を受け、ライブを開催すること自体が危ぶまれた。くるりと10-FEETは、その事態を前に、音楽を鳴らすことの是非まで立ち返って考え、もちろん中止も視野に入れ、それでも何かできることがあるならばと、「音楽を鳴らす」ことを選んだ。結果、普段のライブハウスとは全く違う雰囲気のなか、アコースティック形式で演奏が行われた。

僕はその場所には居合わせてはいない。しかし、あれから一年半、インタヴュアーとして、様々なアーティストに「震災後にどう物事を考えたか」という話を訊いてきた。結果、一つの確信に至っていることがある。それは、多くの表現者にとって、あの日の直後に反射的に何をしたかという、その時の衝動が、後々の自分自身の活動の足場になっている、ということ。もちろん、「何が正解か」とか「何をしたから偉かった」という話じゃない。むしろ、その逆だ。正解が示されていない局面、多くの人にとってどうすればいいのかわからないという価値基準の混乱が訪れた場面において、何を大事に思ったのか。どんな思いに突き動かされたのか。それが、後々に渡って、それぞれの人の価値観の一つのベースになり続けているということだ。

だから、あの日に「音楽を鳴らす」ことを選んだ両者が、それぞれ被災地を何度も訪れ、復興への支援を自らの足で行い、そうしてお互いに呼応しあう2枚のアルバムに至ったという道筋は、とても必然的なものに僕は思えるのだ。

太極図1




「縫い糸」と「坩堝」



では、10-FEETとくるりによる2枚のアルバムは、どんな風に呼応しあっているのか。そのことは、アルバムのタイトルが最も象徴的に表している。

辞書を見ていたら、この言葉が飛び込んできたんですね。「1本の線、一筋の光」とか、そういう意味を表すんですけど、そこから「生命」とか「つながり」とか、いろんなイメージが見えたんです。あと、曲は全部カラーが違うんですけども、針と糸で通せそうな箇所がどの曲にもある。そういう、いろんなものに広く共通して使える言葉だなと思って、いいなと思ってつけました。


(NEXUS「10-FEET インタヴュー」より)
http://www.nexus-web.net/interview/10feet/

僕がタイトルについて考えるなかで見えてきたのは、命の尊厳とか、人々の絆とか、そういった震災以降によく言われるようになった言葉の奥にある「地域性」ということでした。たとえば、そこに行かなければわからない呼び名がある、ということ。(中略)そういうものを象徴するキーワードとして「坩堝」という言葉がまず浮かんできた。

今はいろんなものを坩堝に喩えて話すことができる時代なんじゃないかと思うんです。地域性の話もそうだし、人間の心のなかも同様に坩堝だと思う。そういうものって、なかなかうまくいかないんですよね。原子炉も、冷却の配管が壊れただけで、問題が起こってしまう。どこか一箇所から蒸気が漏れただけで、ダメになる。それは人間の身体や心と同じようなものだと思います。


(『papyrus』vol.44 岸田繁インタヴュー「思い出を背に、進め」より)

「thread」という言葉を辞書で引くと、「縫い糸、織り糸」という意味がまず示される。そこから「糸のように細いもの」「話の筋道や脈絡(2ちゃんねるなどで使われる“スレッド”はこの意味からの転用)」、さらには「生命の糸、人間の寿命」と意味が並ぶ。一本の縫い糸が散らばったものをつなぎ合わせるようなイメージが、その言葉には託されている。一方、「坩堝」は、「物質を溶融し、または焙焼する場合に用いる耐熱性容器」。そこから、「様々なものが混ざっている状態のたとえ」や「熱く激しい気分がみなぎっていることのたとえ」という意味にも転じる。「人種のるつぼ」のように、一つの場所に多様な人や物事が集まっていることを表現する言葉でもある。

 この二つの言葉を通じて象徴されるものは何か。それは「バラバラになっている」という情景だ。それは震災が明らかにした社会の分断かもしれない。もっと普遍的な、出会いと別れを繰り返していく中で立ち現れる感情のさざ波なのかもしれない。どちらにしても、分断され、離別しているからこそ、それを結びつけたいという感情が生まれる。バラバラに散らばったものを、拾い集めて、できることなら一つにしたい――という思い。それが「thread」と「坩堝」という言葉が象徴しているものだと、僕は捉えている。

「取り残されたもの」と、「前に進むためのエネルギー」



2枚のアルバムに呼応しあっているモチーフは、他にもある。まず一つは、「取り残されたもの」という視点だ。二つのアルバムには、たびたび、このイメージを宿す曲が現れる。

ありふれた願いや悲しみは今日も世界に溢れて
君は今ここにいないけれど 僕は少しだけ旅続けてみたんだ
(10-FEET「シガードッグ」)

ああ間に合えば 少し話せたなら 笑えたなら
(10-FEET「コハクノソラ」)

思い出は もう 消えそうだよ 消えそうだよ 青い空
(くるり「soma」)

ねえ この干し草は食べてもいいよ
Take Me Home
サバンナへ帰ろうよ
(くるり「taurus」)

大切なものを失ってしまった人。帰るべき故郷や居場所をなくした人や動物。そういう数々の思いに、寄り添うようないくつかの歌が歌われている。『坩堝の電圧』には「思い出」というキーワードも頻出する。しかし、過去の記憶は、決して単に感傷に浸るためにあるものではない。現在を嘆いたりするためのものでもない。時に冗談を言ったり、笑い合ったりしながら、とにかく、未来に向かって歩みを進める。そのためにこそ、ときに「思い出」に光をあてる。そういうイメージが、アルバムの中核にある。

だからこそ、2枚のアルバムには、もう一つの大事な共通点がある。

それは「それでも、進む」という強い意志が表現の核心になっている、ということだ。その熱意がたぎらせるエネルギーが両者のアルバムの柱を支えている。『thread』の中心となっている「その向こうへ」、そして同じく『坩堝の電圧』の中心になっている「glory days」には、こういう歌詞がある。

風に乗れないまま季節の途中で渡り鳥は眠った
夢の中の空 はばたき尽くしてその向こうへ
描き続けて擦り切れた願いは どこかに消えたけど歩いてみた
(10-FEET「その向こうへ」)

重なる思い出は 未確認飛行物体に戸惑う我々を
桜色に染め上げる 力を与える
反面 disconnected days 涙を乾かしながら 進め
進め 進め
(くるり「glory days」)

そして、これらの曲について、ソングライターであるTAKUMAと岸田繁は、それぞれこう語っている。

書いてある内容っていうのは、震災前に書いてたことなんです。「自分の過去に対して乗り越えていかなくちゃいけない、淋しさと躊躇に気付かへんぐらいの目にも止まらん速さでぶっ飛ばしていかなアカン」。そういう思いを込めた曲です。“ぶっ飛ばしていく”って言葉はその中では使ってないですけれども、そういう思いの“その向こうへ”です。


(『Rolling Stone』9月号 10-FEET TAKUMA「這い上がる信念」インタヴューより)

「進め」というのは、今、必要な言葉だと思うんです。もちろん、進めない人もいるし、頑張れない人もいると思う。でも、とにかく「行け」と言いたい。そういう気持ちになったのは、僕は初めての感覚でした。ただ、そういう言葉には確信と勢いがあるかわりに、皮肉もこもっていると思います。それまでに得たものや今の現実を潰したり、壊したりしないと、次の段階に行けない。それって、すごく辛いし悲しいことなんですよね。

現実を受け入れるのはある意味で残酷なことだと思います。でも、表現者として、そこから目を背けずにいたい。


(前出『papyrus』vol.44より)

過去を見据え、現実を受け入れ、取り残された者たちに寄り添い、それでも、決然と、進む。その意志が聴き手を奮い立たせる熱と化して、それぞれのアルバムに実を結んでいる。

ただし。

00年代のJ-POPには「背中を押してくれる曲」というタームが頻出した。聴き手を励ましてくれる曲が求められ、それがマーケットに提供されてきた。「応援歌」という言葉は、本来、スポーツなどの試合にあたって特定のチームや団体を鼓舞するようなものだったはずだけれど、いつの間にか聴き手一人ひとりの生活を励ますような曲を表す言葉になっていった。そういう類の曲と、くるりや10-FEETが「glory days」や「その向こうへ」で描こうとしたものは、似ているようで全く非なるものだ。

どう違うのか。00年代のJ-POP全般における歌詞の変化を、作詞家のいしわたり淳治は、こんな風に表現している。

今の時代に音楽を聴く人は
音楽を娯楽や趣味ではなく
薬だと思っている人の方が多くて
その効き目を強く求めている時代なんだ
ということではないかなと思います

聴き手が傷心や挫折や失恋や失望や
そういう普段の暮らしで生じた困難に
よりよく「効く」薬を求めている
ということではないかと思うのです

でも音楽にお医者さんはいないから
誰かが症状に応じた適切な処方箋を
出してくれる訳ではないので
自分で「薬」を探さなければいけない

そうなったとき、どうせお金を払うなら
より強い薬を、効く薬を、となるのが
人の心理というもので、それゆえに
「会いたい」とか「一歩踏み出そう」とか
「自分を信じて」とか「勇気を」とか
もはや表現における劇薬というか
とにかく率直で単刀直入でわかりやすくて
身も蓋も侘び寂びもほとんどない
直接的な歌詞が重宝されるように
なってくるのではとすこし思ったのです

音楽はいつの間にか
くさかんむりがついて
音薬になってしまいました

ということなのではないかと


いしわたり淳治(ex.SUPERCAR)オフィシャルブログ・KIHON THE BASIC:「くさかんむり」
http://kihon.eplus2.jp/article/141606395.html


この2曲で、それぞれ「その向こうへ」「進め」と歌われている内容は、そういう類の「背中を押してくれる曲」と、表面的には似ているように思えるかもしれない。けれど、そのエネルギーのあり方は、まったく違う。ちなみに、上記のブログの記事は2010年のもの。いしわたり淳治がこれを書いたのは震災前のことだけれど、やはり震災以降も、「がんばろう」や「立ち上がろう」という直接的なメッセージを持つ応援歌、率直で単刀直入でわかりやすい言葉は重宝された。そのことは当然の流れだった。

しかし、くるり「groly days」と10-FEET「その向こうへ」は、決して単刀直入な、表層的な表現ではない。歌詞を読み解いていくと、そこには沢山の言葉や、一見関連のない事柄や、具体的なことや抽象的なことが、すべて並列に並べられて歌われている。

重なる言い訳も 無くしてしまった過去も
誰より知りたいはずの未来も
福島の友達も 東京の恋人も 広島の野球選手も
九州のお客さんも 境港の同胞も 地元の父母も
(くるり「glory days」)

さよならも醜さも 清らかな卑しさも 小さな愛も
その向こうへ その向こうへ 君の声も その想いも
別れも記憶もその清らかさも その向こうへ
(10-FEET「その向こうへ」)

「○○も」「○○も」。連呼される言葉は、何を象徴しているのか。それは、「取り残されたもの」「バラバラになったもの」だ。それらを一つ一つ丁寧に拾い集めていることが、この2曲を凡百の「応援歌」とされるものと、全く違う位相の表現にしている。

「つなぐ言葉」と、「まぜる言葉」



今まで、くるりと10-FEETが、同じ時代の変化を前に、同じモチーフとエネルギーを持って音楽を作り上げてきた、ということを書いてきた。でもやはり、両者はそれぞれ全く別の個性と方向性を持ったロック・バンドである。鳴らされているサウンドが違うのは当たり前だけれど、それだけじゃない。音楽活動に対する姿勢や考え方も、大きく違う。

そして、そのこともやっぱりアルバムのタイトルが象徴していると僕は思うのだ。『thread』、つまり「つなぎ合わせる一本の糸」としての10-FEETと、『坩堝』、つまり「まぜ合わせる容器」としての、くるり。そこに、僕はすごく不思議な符合を感じる。10-FEETの「つなぐ言葉」と、くるりの「まぜる言葉」。その対比は、今回のアルバムのタイトルだけでなく、それぞれが主催するフェスティバルの名前にも、表れている。

「京都大作戦」と「京都音楽博覧会」。

まさしく、「つなぐ言葉」と「まぜる言葉」だ。この二つのフェスの名前は、それぞれの場に漂うムードを象徴する言葉にもなっている。出演者や参加者一人ひとりの意志を一つにつなぎ合わせる場としての「京都大作戦」。普段は交わらない様々な世代やカルチャーをまぜ合わせる場としての、「京都音楽博覧会」。たぶん、そこまで狙ってつけた名前じゃないと思う。でも、バンド自体が運営やブッキングに参画し、DIYで作り上げるフェスであるのだから、そこに互いの音楽に対する考え方や意志が表れないわけがない。だからこそ「名は体を表す」で、京都大作戦は10-FEETというカルチャーが、京都音楽博覧会はくるりというカルチャーが立ち現れる場所になったのだと、僕は推測している。

ヤブイヌの鳴き声と、未来への道標



そして、もう一つ。

些細なこと、くだらないことなのかもしれないけど、くるりと10-FEETにはツアータイトルの付け方にも、共通点がある。二組とも、くだらないダジャレを言い続けてるのだ。ツアーやイベントのタイトルが、その表出場所になっている。ほんと、しょうもないダジャレをたびたび繰り出してくる。「”どこ行く年!どないすん年!"TOUR 2012」とか、「くるりワンマンライブツアー2012~国民の性欲が第一~」とか。いい大人なのに!っていう。でも、そういう「しょうもなさ」を大事にしているのも両者の「らしさ」なんだな、って最近は思うようになった。

『thread』と『坩堝の電圧』にも、そういう類のユーモアや言葉遊びは表れている。たとえば、《花びらびらびら yeah yo》と歌い、トランペットとクラヴィネットの絡み合いがにハチの羽音を重ねたりする「bumblebee」(くるり)。たとえば、《Foot! Toe! Tail!》(=「太ってる!」)と絶叫する1分半のハードコアパンク「DAVE ROAD」(10-FEET)。どちらも、実はアルバムにおける大切な聴き所になっている。

そういう類のユーモアとか悪ふざけは、いつ生まれてくるのだろうか。それは大抵、友達と飲んでいて、だいぶ時間が経ってきた頃にようやく表れてくる類の「面白さの種」だ。そういうものは、僕も大好き。ゲラゲラ笑いながら、夜中に「ヤバいねえ!」とか「くだらない!」とか「それ最高だねえ!」とか「世界の真実なんじゃない!?」なんて、言い合えるようなこと。そして、ダジャレだけじゃなくて、時にそれは突拍子もない思いつきとして現出する。ほとんどの人は見逃してしまうような些細な、でも掘っていくと奥の深いアイディアとして現れる。そういうことを言い合ってる時は、大抵、みんなキラキラした瞳をしている。

そういう沢山の「しょうもないこと」が、実は未来への道標になる。特に、そういうことを意識的に表現しているのが、岸田繁というソングライターだ。前出の『papyrus』に、彼が持つ今の時代への見方をすごく的確に表現している一節があったので、少し長くなってしまうけれど、引用しようと思う。

タブー論の先で、あっけらかんとした、しょうもないことを、勢いでやる。僕自身はそういうものに勇気づけられることが多い。だからこそ、それまで使いたくなかったカードを切らなきゃいけないことになったら、そのときには、どれだけ面白く使えるかを考えるんです。

名古屋の東山動植物園に、ヤブイヌという動物がいるんです。犬の出来損ないみたいな、地味で格好悪くて、目立たない感じの動物なんですよ。子供たちに自由に絵を書かせたら、きっとこの動物は選ばないだろうなっていう動物。で、鳴き声も変なんです。「けーっ!」って鳴くんですよ(笑)。気持ち悪いけれど、それも地味な感じで。でも、そういうものが、物の見方によっては、すごく大きな個性だと思う。

(中略)

ほとんどのオルタナティブな音楽は、「おかしいやろ、これ?」ってものが、パワーを持つことで王道になっていったものだと思います。レッド・ツェッペリンも、ビートルズも、レディオヘッドも、チャゲ&飛鳥だって、登場した当時は相当変わっていたはず。だから、自分が変だとか、みんなが自分と違うとか思うのは普通のこと。そのせいでつらい状況に置かれていると感じていたとしても、パワーを持っていたら成功することができる。そして、チャンスはばらばらにしか訪れないかもしれないけれども、パワー自体は平等に与えられていると思う。

音楽だけに限らず、そういうものって、あちらこちらで生まれているものだと自分では思っているんです。人って、危機的な状況に置かれたら、面白いことを言ったりするじゃないですか。やっぱり、今の時代、明らかに僕らは困っていると思います。でも、戦争を起こすような攻撃的な解決法ではなく、かといって、単に平和的な解決でもなく、ただただ、新鮮な価値観にあふれていたいと思うんです。


(前出『papyrus』vol.44より)

僕は上記のヤブイヌの話が、すごく好きだ。そこから僕が思い浮かべるイメージは、たとえばこんな話。
震災前から兆候は表れていたけれど、今、世界の様々な場所で「苛立ち」が表出する時代になってきている。中東で、ロンドンで、中国で、スペインで。暴動は各地で立ち現れている。閉塞感は強まっている。そういう状況を前に、村上春樹の言葉を借りるなら「安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽る」タイプの人たちが威勢よく往来を歩いている。一方で、眉をひそめ、イライラとした不機嫌な声で戒めの言葉を呟く人もいる。胸ぐらを掴んで正義を説くようなタイプの人もいる。

そんな雑踏のざわめきの中、ヤブイヌが「けーっ!」っと鳴く。

その奇妙な鳴き声は、いわば、世界中にバラバラに散らばって拾い集められるのを待っている「面白さの種」のメタファーだ。くるりの『坩堝の電圧』と、10-FEETの『thread』は、どちらも感動的であると同時に、しょうもないユーモアも随所にこめられていて、何よりシンプルな「音楽の面白さ」に満ちていて、僕にとってはそこがすごく好きなポイントだった。

未来とか、希望とか、そういう手垢がついた大袈裟な言葉を使うのはあんまり好きじゃない。「これからの時代をどう進んでいくか」なんて巨大な問いを立てても、何らかの正解が見えてくるとは、僕には思えない。1人のリーダーが物事をクリアに解決するとは到底思えない。

でも、僕はできるだけ楽観的でいよう、と心がけるようにしている。
とりあえず、いろんなところから聴こえてくる「ヤブイヌの鳴き声」に耳を澄ますのが、僕の仕事だ。



ヤブイヌ@東山動植物園

※ジャーナル「Knowledge Chair」に寄稿した文章です。
【KC SPECIAL REVIEW】10-FEETの「つなぐ言葉」と、くるりの「まぜる言葉」


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