日々の音色とことば:

移転しました。新URLはhttp://shiba710.hateblo.jp/です。ここは更新されませんがアーカイブを置いておきます
kokuchi.jpg

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ボーカロイドと「死」の境界線

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THE END_Official Site
(画像は『THE END』オフィシャルサイトより)


■「いないけど、いる」という感覚



なんだか久しぶりになってしまった。今日はボーカロイドと「死」について。5月に渋谷慶一郎+初音ミクによるボーカロイドオペラ『THE END』を観てから、いろいろと考えてきた話です。

まずは、初音ミクの「実在感」に関してから。

今年の夏、僕は二つのコンサートを観に行った。「HATSUNE Appearance 夏祭初音鑑」と「マジカルミライ」。どちらも、すごく刺激的な体験だった。



HATSUNE Appearance 『夏祭初音鑑』
http://angelproject.jp/


まず「夏祭初音鑑」。印象的だったのが、初音ミクなどのボーカロイドキャラクターに照明が当たり「影」ができていた、ということ。

半透明のディラッドボードに映像を投影する技術自体は、それだけではもはや斬新なことではないのかもしれない。それでも「夏祭初音鑑」のミクには、今までにない「実在感」があった。3Dホログラムとプロジェクションマッピングを同期させた演出だという。詳しい技術的なことはよくわからない。ただ、初音ミクや巡音ルカや鏡音リン・レンの向こう側に影が見えることで、そこがステージ上であることが強く意識される。もちろんそれはプログラムされた映像なんだけれど、歌って踊るミクが確かにそこに「いる」感覚がある。



「マジカルミライ」は生バンドによる演奏だった。僕が取材したのは、昼の部のU-18優先公演。ステージ中央の巨大スクリーンに初音ミクらボーカロイドキャラクターが投影され、その上段にバンドメンバーが演奏するというセット。後で知ったんだけど、サウンドプロデューサーは江口亮さんだった。今は活動休止してしまったSchool Food Punishmentのプロデューサー。そのヴォーカルだった内村友美さんがコーラスに参加。その他のバンドメンバーも高間有一(Bass)、城戸紘志(Drums)、PABLO(Guitar)、五十嵐勝人(Guitar)、野間康介(Keyboard)という本気のメンツ。ちなみにこちらがリハーサル風景。



特に、僕が「うぉ!」と思ったのは、wowaka「アンハッピーリフレイン」をプレイした時だった。生バンドの2人のギタリストが、上段から降りてステージ上手と下手で客を煽る。その中央にギターを手にスタンドマイクで歌うミクがいる。おぉ、トリプルギターだ。直感的にそう感じ、いやいや、と思い返す。

その瞬間、人間とキャラクターの、リアルとヴァーチャルの境界線が溶けてた。それを認識した時にくらくらした。「実在」が揺らぐ感覚があった。

しかも、よくよく考えたらフロアにいるのはほとんどが中高生だ。なかには小学生もいる。僕はいいおっさんで、数年間で少しずつ技術が進歩して今に至ったことを知っている。「ここまで来たか」的な感慨もある。でもこの場所にいる子たちにしてみれば、これがコンサート体験、ライヴ体験の「前提」になるわけだ。すごい時代が訪れていると素直に思う。

同じようなことを、コンサートに映像演出で参加し、Bunkai-Kei recordsの主宰の一人でもある矢向直大さん(@yako_flapper3)が書いている。

Thinking note: 初音ミクコンサート「マジカルミライ」を体験して感じた存在への境界
http://naohiroyako.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html

ネット記事での反響にはこういうものもあった。30代後半、それまでボーカロイドを全く知らなかった人がTV番組をきっかけに「マジカルミライ」を観て感じたこと。

ミクさんはバーチャルな存在だけど、こうしてステージ上にいきいきと存在しているということは、リアルな存在でもある訳で……? そして、ミクさんは人間ではないにせよ、命のない存在だと断定してもいいのだろうか? 実体はなくとも、ミクさんに魂は宿ってそうだし……。


「現実ってなに? 命って? 魂って?」初音ミクを見て考えたこと - messy|メッシー
http://mess-y.com/archives/2922


2007年からボカロ曲を聴き続け、そのリスナーとしての体験と個人史をブログに書き記しているコバチカさんは、2011年のLAで目撃した「ミクノポリス」の興奮をこんな風に綴っている。

彼女はCGでした、合成音声でした、でも彼女が去っていく時、全員が切ない気持ちになりました。もっとここに居て、歌を聴かせて欲しいと願うようになっていました。

渡米する前に歴史的瞬間を目撃してやると息巻いていましたが、まさか本当に人類史に残るレベルの歴史が誕生するとは思ってませんでした。

人の形をした人ではない者、いないはずの者に対する人間の認識や感性の変遷を調べる際、ミクノポリスは必ず参照されるはずです。


ボクボカ第125回「ミクノポリスとミクの歌」 - ボカロとヒトのあいだ
http://d.hatena.ne.jp/cobachican/20130525


いないはずだけど、いる。生きてるように感じられる。

そのことは、すでに沢山の人が語ってきた。上記のマジカルミライの記事にも「初心者だな」とか「今さら騒ぐのは温度が違う」みたいな反応があったりした。でも、世代が入れ替わりながら常に「入門」が続くのがボーカロイドのカルチャーだ。今も、この先も、この感覚は人の心を揺さぶり続けるんじゃないかと思っている。

■「あの子の命はひこうき雲」



「いる」と「いない」の境界線の揺らぎは、そのまま「生」と「死」の境界線の揺らぎに繋がる。というわけで、ここからはボーカロイドと「死」に関しての話。まず、最近すごく心に刺さったのが、以下の記事だった。6月にご夫人を亡くされた松尾P(松尾公也氏)が書いたブログ。

追悼コンサート「Concert for Tori-chan」と妻音源「とりちゃん」:CloseBox and OpenPod:ITmedia オルタナティブ・ブログ
http://blogs.itmedia.co.jp/closebox/2013/09/concert-for-tor-05ec.html


松尾P氏は、歌声合成ツール「UTAU」を用いて、生前にご夫人が残した歌声から構築したUTAU音源「とりちゃん」を制作している。以下の動画は、その「とりちゃん」が歌う荒井由実「ひこうき雲」。


妻が残してくれた3曲分の歌声から構築したUTAU音源「とりちゃん」に、荒井由実カバーを歌ってもらいました。(略)すばらしいツールの存在に、心から感謝を。おかげで残りの人生でやることができました。



僕が心を打たれたのは、UTAU音源「とりちゃん」が歌うことによって、この曲の歌詞の言葉に今までにない新しい意味が立ち上がってきているということ。そのことが、ものすごく胸に迫ってくる。ちょっと泣きそうになるくらい。

高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも若すぎたと ただ思うだけ
けれど しあわせ
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲


(荒井由実「ひこうき雲」)


歌の「ことば」には、誰がどんな場面で歌うかによって、まったく違う意味と切り口が付加される。だから、時代を超えて歌は歌い継がれる。僕らはそのことをよく知っている。そして、はからずも映画『風立ちぬ』が明らかにしたように、「ひこうき雲」はそういうタイプの曲だ。

そのことはよくわかっているけれど、そして、松尾P氏もそのご夫人も個人的には全く面識はないのだけれど、それでもこの歌は心を打つ。UTAU音源「とりちゃん」が「あの子は死ぬ前も 空を見ていたの」「あの子の命はひこうき雲」という言葉を歌うのを聴くと、理屈じゃなく、なんだかどうしようもなく胸が締め付けられるような感覚に包まれる。

おそらく、一つの愛の形なのだと思う。

■創造をもって死を乗り越える、ということ



そして、『THE END』。



文脈もスケールも違うけれど、これも、やはり「ボーカロイドと死」がテーマの作品だった。本当に心を揺さぶられた体験で、あれからしばらく、その時に感じたことをうまく文章にすることができなかった。

電子の要塞化されたデジタルな環境の中で
「わたしは死ぬの?」と自問するミクの旅が始まります。
ここでは「死とは何か?」「終わりとは何か?」といった
伝統的なオペラでみられる悲劇の構造を初音ミクを媒介にして
現代に読み替えるという試みがなされています。

ボーカロイドオペラ『THE END』オフィシャルサイト
http://theend-official.com/


中盤、ミクが「会いたかった」と言う。英訳は「I miss you」。そこで、気付く。ここの「会いたかった」は、「もう会えない」と同義だ。

渋谷慶一郎さんは、5年前に奥さんのマリアさんを亡くされている。そして、2009年には『for maria』という作品を発表している。おそらく『THE END』も、そこから続く作品なのだと思う。


ATAK015 for mariaATAK015 for maria
(2009/09/11)
Keiichiro Shibuya

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とはいえ、『for maria』と『THE END』は、音響的にはまったく違う方向性を持った作品だ。『for maria』は、「まるでそこで誰かがピアノを弾いているように聴こえるCD」というコンセプトのもと作られたアルバム。そのため、ピアノの弦の軋みやタッチ・ノイズに至るまで高音質で収録されている。一方、『THE END』は、オーチャードホールに8トンのスピーカーを持ち込み、すさまじい重低音で電子音のノイズを鳴らすことを意図した公演だった。極限まで「パーソナルに音を響かせる」ことを追求した『for maria』と、「爆音でぶっ飛ばす」ことを意図した『THE END』。目指しているものは真逆だ。でも、音響が作品の主題自体と深くリンクしていることは共通している。

特に素晴らしかったのが終盤だった。ミクが縦横無尽に空を舞うシーン。着てた服が震えるくらいの迫力。とんでもない高揚感に包まれる。そして、「終わりのアリア」。



死んでるように見える?
それとも眠ってると思う?
それはあなたが決めればいい
どっちもそんなに変わらない

ホワイトアウトはエフェクトじゃない (「終わりのアリア」)



今でも覚えている。オーチャードホールで、この「終わりのアリア」の「ホワイトアウトはエフェクトじゃない」という一節を聴いたとき、本当に胸を鷲掴みにされたような気がした。ホワイトアウト、つまり「光があふれて何も見えない」というのは、単なるエフェクト効果じゃなくて、「生」と「死」の境界線が溶けている世界のことを示す。そしてそれは、『THE END』において、8トンのスピーカーによる服が震えるほどの音響体験(=音によるホワイトアウト)と作品の主題自体が密接にリンクしているということの、強い宣言でもある。

『for maria』で「まるでそこで誰かが弾いているように聴こえる」ことが作品の主題に強く結びついていたのと同じく、でも効果としては全く逆の方向性で、『THE END』には爆音が必然として必要だったのだ。

そして、「終わりのアリア」の後半。「触れない」「話せない」「聴こえない」「見えない」と、ミクは歌う。あらゆる感覚と行動に対しての否定形の描写が繰り返される。死んでしまった人には、話しかけることができない。触って体温を確かめることも、手を握ることも、できない。しかし、その断絶を越えて、ミクは「忘れない 忘れない 忘れない 忘れない」――と歌う。

僕は、この「終わりのアリア」を、すごく純度の高い「祈り」の歌として聴いた。そしてこれは、「いないはずなのに、いる」初音ミクだからこそ歌える歌だったのだと思う。

渋谷慶一郎氏は、『THE END』の国内公演を終えた6月にこんな日記を記している。


4年前に震える指でfor mariaを弾いていたのが
今年はTHE ENDまで辿りついた。
どれもきみがいなかったら出来なかったことだ。
ありがとう。

創造をもって死を乗り越えるという5年前の決心を僕は実行しつつある。
限りなく完全な愛に近いとTHE ENDを観た人に言われたけど、
それを可能にするのも死だということも僕たちは知っている。
それは全然悪いことじゃない。

ここからどこに行くのか見守っていてほしい。
見守る、というのは違うな。上から観て面白がっててほしい。
僕も楽しんでいるから。じゃね、また。


http://atak.jp/diary/201306


11月には、フランス・パリのシャトレ座で『THE END』公演が行われる。
http://chatelet-theatre.com/2013-2014/the-end-en


19世紀からオペラの歴史を彩ってきた伝統的な劇場で、しかも20世紀初頭にはコクトーとピカソとサティのコラボによる革新的な公演が行われたシャトレ座で、このボーカロイド・オペラが上演されることの歴史的な意味合いも大きいと思う。

すごく楽しみです。


初音ミク V3初音ミク V3
(2013/09/26)


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